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容疑者
東郷への事情聴取が始まった。
取調室で手枷を付けた東郷の頭頂部を見つめながら、門叶は手帳とペンを取り出した。
意識を取り戻した糸峰の証言をもとにトランクルームを探すと、千歳の手首は見つかった。
切断理由を糸峰に確認すると、その訳を聞いてその場にいた人間は驚愕した。
誰もが思う供述をするのかと思えば、湊に触れた汚い手だから切った、と汚物を見るような顔で答えたのだ。
トランクルームには湊が使用した紙コップや、髪の毛などが袋に保管されており、祭壇を装った棚に崇めらるように祭られていた。
壁中には湊の写真が隙間なく貼られ、赤いセロハンで覆った電気の灯りを浴びた部屋は、血で染まったように不気味だった。
糸峰はこれから、精神鑑定に持ち込まれることになった。
無精髭を生やした東郷の向かいに門叶が腰を据え、門叶を見守るよう、錦戸が後ろに立っていた。
「……最初に糸峰から声をかけてきたんです。僕が鷹屋敷家の郵便物を盗む動画を見せられて」
淡々とした口調で東郷が事件の発端を口にする。
門叶は手帳を閉じ、ペンと一緒に机に置くと、「それで?」と、東郷に問いかけた。
「訳を言わないと警察に言うと彼女に脅されて、姉のことで鷹屋敷家を憎んでいると話しました」
糸峰と企てた復讐劇を、淡々と綴っていく様を見ながら、門叶は机の上で両手を組んだ。
「此本さんを手にかけた理由は?」
壁に寄りかかる錦戸の気配を感じながら、門叶は質問を重ねる。
「あの日……僕の部屋に来るのは湊君の予定だった。糸峰が呼び出してくれていたはずなんです。けど、来たのは此本さんだった……。それが僕の予定を狂わせた……」
頼りなげな声で東郷は告白を続ける。
「糸峰は湊君を呼び出す理由を、此本さんにわざと話したんです。僕が彼女に何かすればと踏んで。案の定、糸峰の思惑通り、僕を説得しようと彼女がやって来て口論になりました……」
上げかけた顔はすぐに伏せられ、一瞬見えた表情は虚無を帯びていた。
その顔になぜか門叶は全身を粟だたせた。
それでも東郷の微弱な反応を逃さないよう、目の前の虚な顔をジッと凝視する。
「此本さんは湊に手を出すなと、手を出せば警察に言うと叫んだんです。偉そうな態度にカッとなって、気づいたら自分の手が彼女の首にあって……。一度力を込めるともう、止められなくて。でもその殺害現場を糸峰に見られていた。彼女は此本さんを殺した僕に、ありがとうと、礼を言ったんです」
「糸峰が湊君を自分のものにするために、邪魔だった此本さんを殺害したから?」
「……はい」
精悍な面影はなく、事件から一晩しか経っていないのに東郷の顔は一気に老け込んでいた。
肺の奥まで酸素を取り入れることをしようともせず、最小限の呼吸で供述しているように見える。
「……郵便物を盗んだのはいつ頃?」
「大学に勤める少し前……。公にすれば一生が台無しになると、糸峰は笑って言ってた。湊君が就職先の大学に通っていることも、彼女が教えてくれました」
「脅してはいたが、糸峰は協力的だった……?」
「……どうでしょう。でも僕は最初から彼女の駒だったと思います。あの子が湊君を手に入れるための……」
顔は見えなくても、東郷が自嘲しているのが分かる。糸峰に従うしかなかった愚かな自分を。
それは、悲劇の笑みだった。
「湊君を殺してもお姉さんは喜ばない、そうは考えなかった?」
「僕の気持ちをわかってもらうには、奴らの息子を殺すしかない。体裁や金にしか興味のない、正義の顔を装う医者には」
「それで糸峰の話に乗ったのか」
東郷が黙ったまま頷く。
それはあまりにも些細な動きで、頷いたであろうと想像したくらいだった。
湊に依存する糸峰に気付きながらも、巧みに|懐柔《かいじゅう》されてしまった。
手練手管で糸峰に心まで忍び寄られた結果、彼の復讐心は肥大化してしまったのだ。
「遺体はなぜ裏庭へ遺棄したんですか?」
「……生方先生がいつも最後まで大学に残っていた、だから……」
「生方先生に罪を被せようと?」
今度はしっかりと東郷は首を縦に動かす。
「きっと生方先生が一番に発見する、そして彼は此本さんと密かに付き合っていた。警察は彼を一番に疑うだろうと思いました。此本さんの血と、先生と同じサイズの靴跡で疑いは濃くなると……」
東郷の肩が微かに揺れた気がした。
その姿が笑ったように見え、門叶は眉間にシワを刻んで、犯罪者に成り下がった男を見つめていた。
「あなたは生方先生の部屋からブルーシートを持ち出し、それを床に敷き、血で汚れないよう保護してから手首を切断した。そしてシートをまた、生方先生の部屋に戻した。血痕は拭いても、警察は痕跡を見つけると思って。違いますか?」
この質問に初めて東郷が顔を上げて瞠目した。
門叶はその表情を確認しながら話を続けた。
「生方先生が部屋の本棚を設置した時、床を養生するのに使ったシートです。あなたはその上で手首を切断し、生方先生にも勧めた珈琲店の空き箱に入れた。これも彼に疑いを向けるためですね」
「……そうです。あの日も生方先生は大学に最後まで残ってました……。広い構内に自分の恋人が僕の部屋にいることも知らずに、いつものように裏庭を見て帰って行きましたよ」
低い声でククッと笑いを噛み締め、それを原動力に東郷が顔を上げた。
虚な目が乱れた前髪から覗き、彼の目と合う。「何がおかしい」
門叶は訝しい気持ちを口にした。
「いえ……何でもありません。あの、水をもらえますか」
不穏な空気を醸し出す東郷に怪訝な顔をしつつも、門叶が席を立とうとした。だが錦戸に制止され、古参が水を取りに部屋を出て行く。
二人だけになるとずっと笑いを我慢していたのか、東郷がさっきよりも激しく肩を揺らしている。
逮捕されたことでおかしくなったのかと、門叶は睨みを効かした。
「刑事さん、あなた背中が、怖いんですか」
東郷が唐突に聞いてくる。
「な、何をいきなり……」
ざらりとした声が記憶を刺激し、門叶の心臓が大きく跳ねた。
閉じ込めていた記憶が剥離されると、身体が硬直して冷や汗がこめかみを伝う。
手足が冷たくなるのを感じながら、門叶は過覚醒症状に襲われていた。
すると、東郷が机に上半身を乗せるように前のめりに近付き、歪な微笑みで門叶を覗き込んでくる。
右へ左へと顔の角度を傾けながら、闇のような黒い双眸で門叶をジッと見つめてきた。
「大学で女生徒に背後から声かけられた時、かなりびっくりしてましたよね。その後に僕の所へ来た時も、尋常じゃない驚き方だった。此本さんの死体が発見された日も、僕の視線を敏感に察してましたよね」
「い、今はそんな話し関係ない……」
動揺して怯んだ門叶に、一瞬の隙が生まれた。
それは刹那に起こった動きだった。
机に置いてあったペンを東郷が奪うと、彼はそれを勢いよく振りかざし、自身の首へと思いっきり突き刺したのだ。
トラウマを刺激され、茫然自失になっていた門叶には、到底、防ぐことが出来ない俊敏さだった。
椅子に座った状態のまま東郷の体は後ろへ倒れ、門叶の視界からスローモーションのように消えた。
机の影に体が沈み、大きな衝撃音が取調室に響くと、血糊のような血飛沫が壁に飛び散る。
眼球を上転させた東郷の体が、ヒクヒク動いていた。
東郷──と、名前を叫んで駆け寄ろうとした、その時、錦戸が戻って来た。
「何やってんだ門叶! 早く人を呼べ!」
錦戸が叫びながら、倒れた東郷の元へ駆け寄るのが目に映る。
それなのに門叶の足は動かなかった。
流れ出る血を堰き止めるよう両手で刺傷部を押さえる錦戸に、「早く行けっ!」と、再び大声で叫ばれた。
門叶はようやく正気を取り戻すと、もつれる足を奮い立たせながら、一心不乱に部屋を飛び出した。
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