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桜の下で

 ベランダを開けて空気を模様替えすると、胸いっぱいに朝の清々しい空気を吸い込んだ。  澄んだ空に惹かれるよう、門叶はカップを片手にベランダへと出た。  美しい朝だと、煎れたての珈琲も一段と美味く感じる。 「あれから二年、いや一年半、くらいか……」  日々変わらない街並みに、聞こえてくる生活音。  殺伐とした日常を忘れ、二日ばかりの休日は日頃の忙しさをぼかしてくれる。  手摺りにもたれながら、前髪を風に委ねていると、目の前を桜の花びらがひらりと舞い落ち、カップを持つ手に着地した。 「そっか、あそこも満開かも……」  春の欠片を指で摘むと、忙殺する隙間に何度か思い出していた顔をそこに重ねた。 「律、元気にやってるかな……」  懐かしさが胸に広がると、隠しておいた甘くて苦い感情が顔を出そうとしてくる。  中学の時に受けた、一方的で乱暴な感情を植え付けられ、人を好きになる感覚を門叶は失った。にもかかわらず、男としての欲望を消化したい衝動に駆られるジレンマ。  理不尽な自分の感情を持て余し、たどり着いたのが即席の愛だった。  誰にも執着せず、ただ、処理のように相手と一時的な劣情を味わう。  ただ、背中側だけは触れさせないままで。  後ろから受けた恐怖を忘れられない限り、誰とも一緒に生きてはいけない。     そう思っていたのに──。  律だけは、平気だった。  反対に、彼の吐息を背中にずっと感じていたいとさえ思ってしまった。  まだ高校生だった、美しい男に惹かれた。  この感情が恋だったとしても、成就することはないと思った。  刑事と大学生。  事件の関係者で、何より彼には忘れられない人がいる。   「不毛な恋……だな」  溜息を空に吐くと、門叶は部屋に戻って使い込んだ手帳に花びらを挟んだ、  そのまま椅子にかけていたパーカーを手にすると、羽織りながら部屋を出る。  マンションの階段を跳ねるように駆け下り、春の匂いが揺蕩う通りに出ると、温かな空気がそっと全身を包んでくれる。  桜の花びらに導かれるよう、十分ほど歩くと、通勤でお馴染みの橋が姿を表した。 「やっぱり、満開だったな」  橋の袂から続く並木道は、桜がひしめき合うように青空へ聴色(ゆるしいろ)を奮発している。  平凡な景色を背景に、時折花びらを散らつかせる様に、過去の悍ましさはもう薄れていた。 「ここまで絶景とは気づかなかったな」  忙しさを言い訳に、春の美しさを無意識に避けていたのかもしれない。  それを残念に思えるほど、今の門叶は頭上を燦然と覆う桜雲を真正面から捉え、そして見惚れていた。  平日だからか、花見見物をする人も少なく、門叶は橋の欄干にもたれながら空を仰いで目を閉じた。  律と初めて会った夜も満開だったな……。  万朶(ばんだ)の花を嵐がごうごうと揺さぶる夜、深潭へと身を投げて命を捨てようとしていた律。  死を選んでまでも貫こうとした深い愛は、拙いながらも、門叶の心を締め付けるものだった。  恋人の代わりに、自分の体を差し出すくらいに……。  欄干に頬杖を付き、薄紅の軽雲に思いを馳せていると、遠くで名前を呼ばれた気がした。  振り返ろうとした──がその刹那、突風が巻き起こり、視界を奪われると反射的に目を閉じた。 「すっごい風だな……」  せっかくの桜が散ってしまう、と心配気に目を開けると、はらはらと舞う春の欠片の向こうに懐かしい顔を見つけた。  ゆっくりと近付いてくる彼の姿に、門叶は瞬きも忘れて魅入っていた。 「り……つ」 「お久しぶりです、門叶さん」  少し大人っぽくなった律が、枝葉から降り注ぐ木漏れ日を頬に受け、懐かしそうに微笑んでいる。 「相変わらず……」  ──綺麗な顔してるな、と門叶は続きの言葉を心の中で呟く。 「相変わらずって何ですか?」  言葉尻を濁す門叶に、律が焦点を合わすようパチパチと瞬きをしている。 「いや……ここでまた会うなんてね」  照れ臭くなり、門叶はわざと大人ぶった口調を意識して言った。 「……何だか急にここへ来たくなったんです」  顎に角度を付け、律が眩しそうに桜を見上げている。 「そう……か。律、元気だった?」  俺も来たくなった、と言う言葉は飲み込み、門叶は嬉しさを隠しながら聞いてみる。 「はい、元気ですよ。門叶さんは今日は休みですか」 「そう、久々の休み。しかも明日もね」 「それは散歩したくなっちゃいますね」  満開の花にも負けない笑顔で言われると、門叶はゴホンと咳払いを一つして、花見でもする? と、遊歩道のベンチを指差した。  桜並木が続く歩道の側では、先生らしき人とお揃いの服でキャッキャと駆け回っている園児がいた。  そんな微笑ましい風景を見守るよう、二人組の老人が、花筵(はなむしろ)の上で水筒を片手に会話をしている。  門叶と律も、等間隔に設置されたベンチに腰掛け、伸びやかに空を目指す桜を堪能していた。 「もうすぐ卒業だよね。律は就職決まった? あ、湊君も元気かな?」  年上らしく近況を尋ねることで、門叶はさっきからうるさく脈打つ心臓をひた隠ししていた。 「湊は……多分元気だと思いますよ。あいつあの事件の後、大学やめてアメリカへ行ったらしいんで。医者になるために」 「そっか、アメリカかぁ。病院の後継ぎだもんね、彼は」 「そう……ですね」  俯き加減に応える律が、悲しみと背中合わせの笑顔を浮かべていた。  事件とは別の所で、二人に何かあったのだろうかと推し量ってみても、門叶にそれを確かめる理由はない。  沈みかける顔に気づかないフリをし、「律は?」と聞いてみた。 「俺は……警官になります。門叶さんの後輩ですよ」 「え、マ、マジで?」  予想外の回答に門叶は面食らった。  まさか警官を目指しているとは夢にも思っていなかった。 「俺、門叶さんの背中に憧れましたから」 「せ、背中?」  門叶にとって恐怖の象徴でしかない、そのワードに心臓が凍りつく。 「はい。東郷に襲われた時、咄嗟に俺たちを庇ってくれたあなたの背中です」  意表をつかれた理由に、門叶の思考は停止してしまった。 「門叶さん?」  律の声で我に返ると、急に耳朶が熱くなる。  へえ……と、適当な相槌を打って誤魔化した。  驚きと嬉しさがないまぜになり、照れ臭くなった門叶は、切長の二重から逃げるように、髪をかき上げる仕草で顔を隠した。 「あの時、身動き出来ずに本当に恐くて……もうダメだと思ったんです。俺ら殺されるなって」 「そう……だよな、恐かったよね」 「でも門叶さんが助けに来てくれて、あいつの前に立ち塞がってくれた。あなたの後ろ姿に凄く安心したし、心底救われた気持ちになったんです。だから俺も誰かの役に立ちたい、門叶さんみたいに……。そう思ったら、もう警官になろうとしか思えなくって」  誇らしげに語る律を見て、門叶の胸に熱いものが迸った。  それは警察官の制服を初めて身に纏った、若き頃の初々しい自分の感情に似ている気がする。  門叶は不思議な感覚に包まれながら、「背中か……」と呟いていた。  トラウマになった重い荷物を、密かに想いを寄せる男が、いとも簡単に取り除いてくれた。  大人になっても尚、厚みを増す恐怖心を吹き飛ばすように。  もう大丈夫だからと、律の眼差しが教えてくれた気がした。  蔓延っていた瑕疵(かし)が薄くなり、込み上がる熱いものが胸に広がる。  なんだか急に恥ずかしくなり、門叶は桜の花へとまた視線を逃した。  朝露を纏った薄紅が色を成す彼方へ、逸る心音を預けるように。  急に黙り込んだ門叶を不思議に思ったのか、律が上から顔を覗き込んでくる。 「……そんなに顔を近づけたらチューするぞ」  冗談で言ったのに、「それは卒業までとっときますよ」と、律が笑って言った。  その場のノリだとわかっているのに、今度は頬が熱くなる。  自分から仕掛けておいて対処に困る。  それなのに頭の中では、大学かそれとも警察学校のどっちの卒業なんだろうと、馬鹿な事を考えてしまった。  律はあの夜、肌を重ねたことを夢だと思っている。  現実を受け入れられず、夢の中で愛しい人を求めただけの切ない行為。  今、目の前にいる秀麗な男に、夢なのか泡沫なのかを伝える必要はないと思った。  ジッと見つめられると、拙かった高校生よりも、事件の時よりも、グッと男らしくなった律を前に、鼓動が勝手に騒つく。  覆い被さっている眼差しに触れたくて手を伸ばすと、前髪の隙間から見下ろす瞳と重なった。  慌てて目を逸らそうとしたら、黒髪に留まる薄紅の欠片に気付いた。  そっと摘んで律の手のひらに乗せてやる。  小さな春を見つめて微笑む律の髪を、穏やかな風が優しく撫でて通り過ぎていった。  清廉な景色から桜雲へ視線を移した門叶は、解き放たれたように舞う花びらを目で追った。  何気ない言葉でも自分にとっては価値があり、それをきっかけに、心は自由を手にいれることが出来る。  律の言葉が糧となり、忘れていた理想の自分へと背中を押してくれた気がした。 「律、ありがとう」  門叶は隣で花びらを眺める律へ伝えると、蒼く澄んだ空へと思いっきり深呼吸をした。  不思議そうに目を瞬かせる、律の視線を感じながら。  穏やかな春風が散り際の桜を一際美しく演出し、二人の前を去ってゆく。  嬉しそうに舞いながら、空の彼方へと桜は消えていった。  完

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