55 / 56

トラウマ

「もうすっかり春ですね……」  自席で事務処理に没頭していた門叶は、陽だまりが差し込む外の景色を見ながら呟いた。 「……なんだ、しおらしいな」  煙草を手に腰を上げかけた錦戸が、出鼻を挫かれたのか、椅子に座り直しながら門叶の視線を同じようにたどっている。 「……キドさん。桜って記憶を呼び起こしてくれる、特別な花ですよね」  春の訪れを知らせてくれる花は、見る人の心を癒してくれる。  そこに恐怖などないのだと、(いにしえ)より変わらない、柔らかな季節を連れて来てくれる。  未熟な人間たちを、おおらかな表情で見守りながら。 「お前……いや、何でもないな」  言いかけた言葉を飲み込んだ錦戸が、もう一度煙草を手にして席を立った。  昼飯時で他の刑事は席を外し、事務所には二人だけで、聞こえてくるのは廊下を歩く職員の雑談だけの平和な昼休み。  満開の桜が導いてくれたのか、門叶はこれまでの思いを古参に伝えたくなった。 「キドさん、ありがとうございます。俺は、もう平気……ですよ、きっと」  扉に手をかけたまま錦戸が立ち止まると、「そうか」と、肩越しに言ってドアを開けた。  門叶はすかさず「禁煙は?」と、後ろ姿にニヤけながら突っ込んでみる。  悪戯を見つかった子どものように、背中がビクッとなったが、振り返ることもなく、そそくさと古参は部屋を出て行った。  笑いを噛み殺しながら背中を見送ると、門叶は制服を纏った若かりし錦戸を思い出していた。  中学三年生の時、門叶は塾の帰りにレイプされた。  犯人はひとつ年上の卒業生で、同じ部活の先輩だった。  その日は大好きな叔父夫婦が家に遊びにくる予定だった門叶は、早く家に帰りたい一心で、いつもは通らない公園を帰り道に選んでしまった。  公園を抜ければ家まで近道ではあったが、物騒だからと親から使用することは禁じられていた。   それなのに言いつけを守らず、門叶は平気だろうとたかを括って、夜の公園に足を踏み入れた。    誰もいない公園は不気味で、自然と門叶の足は早歩きになっていた。  古びた街灯の灯りだけを頼りに、足を早めた門叶はいきなり背中から羽交い締めにされた。  背後から口を塞がれ、カッターを突きつけられると、恐怖で声を出すことが出来なかった。  公園の片隅に植栽されていた桜の木まで連れて行かれると、脅しのように浅い傷を腕や足に何ヶ所もつけられていく。  痛みよりも流れる血と、目の前の見知った男の豹変した姿に怯え、恐怖で声も出せないまま、犯人のいいようにされてしまった。  年上の優しかった先輩は別人となり、喜悦を発しながら背後から攻め立て、門叶は嬲られ続けた。  門叶の顔を見る勇気もなかったのか、男はただひたすら自分の欲望を背後から突きつけてきた。  背中にかかる生暖かい息や、じっとりとした汗。  それに身勝手な快楽の声が混じり、門叶の背中に刻印のように刻みつけてきた。  恐怖と苦痛を味わう中、門叶は声を出した。  汗ばんだ手で口を押さえられながらも、必死で大声を出したとき、巡回していた警察官の錦戸に助けられたのだ。  犯され、傷付けられた門叶を、必要最小限の言葉で慰めてくれた。  両親が迎えに来るまで、錦戸は守るようにずっと側にいてくれたのだ。  後日、犯人だった先輩は自殺した。  高校受験に失敗し、八つ当たりのように想いを寄せていた門叶を襲ったと、ノートの片隅に遺書のように書いてあったらしい。  何より警官に顔を見られたことが、人生が終わったと殴り書きされていたそうだ。  たったそれだけの理由で人を襲い、自分の命まで捨ててしまうのかと、門叶は言いようのない虚脱感を味わった。  同時に、負の感情を振り払いたくなる、熱情が湧き上がるのも。    襲われたことで小さなトラウマは残ったけれど、身も心も傷付いた十五歳の少年を、優しく見守ってくれた警察官が、事件後も自分を気にかけてくれたことで立ち直れたと言っても過言じゃない。  凛々しい警察官の彼に憧れ、この道を選んで今、自分はここにいる。  大きな手と温かな眼差しに救われ、強くなれとその姿で教えてくれた人のそばにいる。  それがどれだけ嬉しいことか。  門叶もいつか誰かのために心血を注ぎ、錦戸のように弱い人を守れる人間になりたい。  警察学校に行きながら、その思いは色濃くなっていった。  そして改めて気付く。  自分はまだ彼に守られているのだ、と。  あの日、俺を救ってくれたのがあなたでよかったです……。   ペンをクルクルと回しながら、門叶はもう一度窓の外を見た。  見慣れた殺風景な職場も、桜雲が色を添えてくれている。  平和なひと時を噛み締めながら、「明日は休みで幸せだー」と、思いっきり伸びをした。

ともだちにシェアしよう!