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バイバイ

 警察署からの帰り道、いつの間にか歩調を合わせて歩いてくれる律に気付き、そっと横顔を盗み見た。  側にある腕に触れそうで触れられず、気軽に戯れついていた過去の湊を、今の湊が打ちのす。    隣を歩く律に鼓動を逸らせながらも、侮蔑(ぶべつ)のこもった律の目を思い出すと、湊は何も喋れなかった。  黄昏時に道行く人の姿はなく、遠くで車が駆け抜ける音が聞こえてくるだけだった。  二人分の足音だけしか聞こえない無言の時間が苦しくもあり、でも、このままずっと道が続けばいいのにとも思った。  けれど容赦なく別れ道はやってくる。   いつもの十字路はもう目の前だ。  犯した愚行を律に知られるまでの自分は、大好きな男と離れ難くて、何だかんだと話を引き伸ばしては引き止めていた。  高校生のときに律へと課した命令は、大学になっても継続してくれた。  そのことがあったからかもしれないけれど、湊が満足するまで律は付き合ってくれた。  律はやめたい、と一度も言わなかった。  自分勝手な契約に律が黙って従っていたのは、一楓の入院費用を返すため。  ただ、それだけだ。  それも、亮介の動画で律と俺を繋ぐ最後の糸は切れたけどな……。  いつもなら直接手渡してくれた現金も、あれ以来現金書留で送られてくる。  どこまでも惨めで情けない人間だな、と封筒を手にする度に凹んだ。  未熟でわがままな自分に嫌気がさした湊は、「それじゃ……」と、踵に力を込めた。  一緒に歩くことがこれで最後だと思うと、切なすぎて苦しい。  それでも勇気を出して律に背を向けた。  何か声をかけたかったけれど、喉が乾燥してうまく声が出ない。  名前も呼ぶ勇気すらなかった。  追い込まれることに慣れていない湊は、無言で立ち去ることを選んだ。  自分の感情を切り捨てるつもりで。  それなのに、家路へ向かおうとする背中に、思いがけない言葉が湊の足を止めた。 「湊、家まで送るよ」  予想もしなかった言葉に振り返られずにいると、再び律が肩を並べて鷹屋敷家へと歩き出した。  湊が拗ねると、律は決まって家の前まで送ってくれた。  夜遅くなったときも、アルコールを飲んだときも、律は必ず家の前までついてきてくれた。  今、その記憶が再現されたことで、嬉しくて涙腺が緩みそうになる。  けれど千載一遇のチャンスはあっという間にすぎ、それを生かすことが出来ないまま自宅の門が近づく。  鷹屋敷家を前にすると、不意に律の足が止まり、「湊……」と呼び止められた。  砂糖菓子のように、やんわりと湊の心を甘く包む律の声。  名前を呼ばれただけなのに、多幸感に満たされてしまうのは、この男を好きすぎるからだ。 「……俺は、やっぱりお前が許せない」  律の言葉で手にした甘みはみるみる冷え固まり、鋭い先端に姿を変えて、容赦なく湊の胸を貫く。  真正面から律を見る度胸もなく、「……わかってる」と、呟くと目を逸らして一生消えない罪から逃げた。 「けど、俺はお前をどうしても憎めないんだ。東郷に襲われたときにわかったよ、お前のことも大事なんだって。大事な、俺のダチだ」 「律……」  項垂れていた心と顔が、律という引力に引き寄せられ、次第に上昇すると、背けていた視線を前に向けた。  綴られる言葉を聞き漏らさないよう、湊は全てを甘んじて受け入れる姿勢をとってみせた。 「お前が一楓にしたことは許せない。でも……そのあとに湊がとった行動は温ったかいもんもあった」  上着のポケットに手を突っ込みながら、律が真っ直ぐ自分を見つめている。  それは咎めるものでも、詰め寄るものでもなく、いつもの優しく凛々しい律の顔だった。 「り……つ、俺……」 「許せないって気持ちはお前にだけじゃなく、お前を許そうとする自分自身にもあるんだとおも──」 「違う。律は悪くないっ! 俺がバカだった、バカだったんだ……」 「湊、俺はさ。一楓にたくさん教えてもらったんだ、人を大切に想う気持ちや、誰かを許すこと。幸せも……全部、一楓が教えてくれた。だから俺は一楓に恥じないよう、真っ直ぐに生きて行きたいんだ」  だから、俺を許すと言うのか……。  一楓がそれを、それができる律を好きだから……。 「りつ、俺……」 「それと……今さらだけどありがとな、一楓のために親に頼んで最後まで入院させてくれたり。あと、ガーベラだっけ。届けてくれてたんだろ?」  情動性が引き起こす分泌物が、堪えきれず湊の目から溢れ、頬を伝う。  懐かしい大きな手のひらが髪を撫でてくれると、湊は崩れるようにその場に蹲ってしまった。  視線を合わせるよう律も屈み、背中を撫でてくれる。  大好きな人の手の温もりで涙が止まらない。 「り……律。俺、お前らに……ひ、酷いことやった……ごめ、ごめん。本当に……ごめん」  小さく折り曲げた体を一層丸めると、湊は周りも気にせず小さな子どものように泣きじゃくった。 「俺も知らずにお前を傷つけてた。お前がどんな気持ちで俺との関係を望んでたこととか、俺は知ろうともしないで、ずっと無視してた……。ごめんな」  湊は応える代わりに何度も首を左右に振った。  懺悔(ざんげ)の雫を手で覆い、ひたすら首を横に振った。 「俺……い、一楓にも謝れて……ない。千歳……にも。俺、ごめん、ごめん……なさい」  消えない原罪と、傷付け傷付いた過去を吐き出すよう、湊は身体中の水分を使って涙を流し続けた。 「東郷が言ったこと、俺は事実かどうかは分からない。けど、お前の両親には感謝してる、感謝しても仕切れないよ。ちっぽけな高校生との約束を守ってくれたんだからな」  涙が出てよく見えないけれど、目の前にいる律は、湊が大好きないつもの凛々しい律だと思う。  本当にこの男が欲しかった。  体だけではなく、心ごと自分のものにしたかった。  一楓を酷い目に合わせるほど、律を失意のどん底に陥れるほど、律という人間を愛していた。 「……お、俺は……優位にいたかった、だけな……んだ。だ、から……」 「理由なんていい。本当に感謝してるよ。今思うと、非常識なことしてたよな。一楓のためなんて言って、俺のエゴでしかないのに。けど、これからも金は受け取ってくれよ。俺のケジメだから」 「わ、わかった……」  振り絞った声で湊は応える。 「ほら、立てよ。あーあ、明日はきっと休講だろーな」  たくましい腕が差し出されると、湊は大きな手に戸惑いながらも縋って立ち上がった。  男二人が玄関先で何やってんだろな、なんて笑いながら言ってくれる。大好きで、大切な人。  ずっと泥濘の中でもがき、苦しかった思い。  でもそれ以上に一楓は苦しくて、律は悲しかったはずだ。  全てが許されるとは思わない。  だが、救われた命に感謝し、それを忘れずに生きようと、少しだけ軽くなった心で誓った。  湊はようやく素直な気持ちで、「ありがとう」と律に笑って言えた。  苦しくても息をする。  悲しくても逃げ出さず、無様な過去を忘れないようにこれからも生きて行く。  いつか誰かのために笑顔を向けられるよう、暗闇にも挑める人間になれるように……。  そう教えてくれたのは、目の前で笑ってくれるかけがえのない人だ。  この先、律より好きになる人はきっと現れないだろうなと、切ない感情がまた湊を追い込む。  けれどそれでもいいと思った。  今は、律をとことん愛し、一楓へ一生詫びる、このことを原動力に生きていこう。 「見ててやるから、早く家に入れ」 「ダメだ、律が先に行けよ。たまには俺に見送らせろ」  散々泣いたあとなのに、いつもの強気な口調で言ってみる。  ちょっと照れ臭かったけれど、これがいつもの『俺』だから。 「お、おお。わかった……じゃまたな」  以前と同じ、一人っ子で我儘な湊の様子に安心したのか、手を上げると、律は踵を返して前を進んで行った。   「じゃあな、律。……バイバイ」  大好きだった人の名前を、噛み締めるように呟いた。  背筋を伸ばし、真っ直ぐ前を歩く律の後ろ姿は、これからの湊の指針になる。  夜の色へとグラデーションに移り変わる空の下で、湊は律の残像をいつまでも見送っていた。

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