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幼馴染

 湊は警察署内の会議室で、言いようのない感情を味わっていた。  東郷に殺されかけ、絶体絶命の状態だったのに既のところで救出される。そんな、映画のような恐怖を昨夜体験した。  まだ恐怖で震えていてもおかしくないというのに、湊は隣にいる律のことで頭がいっぱいだった。  久しぶりに聞いた律の『湊』と呼ぶ声が、まだ耳の奥で甘く彷徨っている。  亮介から隠密を暴露された時、自分に向けられた律の顔は、侮蔑と憎悪が滲み出ていた。  だが昨夜の東郷との対峙で、湊を庇ってくれた律はこれまでと同じ、優しくて美しい大好きな人だった。  横顔を一瞥し、心の中でそっと名前を呟いてみる。すると、窓の外を眺めていた律が不意に角度を変え、湊の方へ視線が移った。  心で呟いた呼びかけが聞こえた?  期待に胸がトクンと高鳴ったけれど、律の眸に湊の姿が映ることはなかった。 「ごめん、待たせたね」  扉が開き、早足で門叶が入ってくる。  そうか、彼を見たのか──。  だよな……と肩を落とし、湊も同じように門叶を見た。  律の命を二度も救った、秀麗な刑事の顔を。 「二人とも体は大丈夫かな」  門叶の質問に、二人は声を揃えて「大丈夫です」と返す。 「事件は解決したから、安心してくれよな」  優しく微笑む刑事が、律の腕に視線を向けている。きっと刺された傷を気にしているのだろう。   そんなことに気付きたくなくても、二人の仲を勝手に勘ぐる心が湊を惨めにさせた。 「でも、湊君が生方先生の携帯を鳴らしてくれて本当によかったよ」 「あ、ああ……。あれは、着信歴に触って、誰かに繋がればいいと……」  糸峰と東郷が言い争うそばで、湊はスマホを触っていた。  もし見つかっていれば即、殺されていたかもしれない。でも、あの時の湊は律を助けることしか頭になかった。  生方の番号を探り当てたのは、奇跡、いや、千歳が守ってくれた……。  そうとしか思えなかった。  姉のように優しくて頼もしい友人が。 「そうか。よく生方先生の履歴にヒットしたもんだね」 「……きっと千歳が助けてくれたんだ。生方が自分の父親のことで苦しんでるのが辛いって、あいつは言ってた。でも、それ以上に生方を好きなんだとも。だから俺が先生にそのことを伝えてやるって、柄にもなく生方に電話をしたんだ。何回か電話したけどそん時は先生、電話にでなかったんだ」 「知らない番号からの電話はとらなかったのかもね。でもその数回の発信歴を引き当てたのは、俺も此本さんが助けてくれたって思うな」 「千歳はおばさんに悪いって思ってたからな……」  彼女の性格を知り尽くす湊は、千歳の思いを代弁した。  きっとこの答えで合っていると。 「……お母さんか。此本さんも辛かっただろうね、きっと」  門叶の言葉で、明るい笑顔の千歳が浮かぶ。  罪のない千歳の死は重すぎる。悔しすぎる。  なにより、早すぎる死だった……。  東郷や糸峰に対する憎しみの火種が、湊の中でまだ消えずに燻っている。  法によって罪を裁かれても、湊の中の怒りが浄化されることは一生、ない。 「門叶さん、糸峰の傷は?」  二人の話を無言で聞いていた律が尋ねた。 「出血多量で危なかったけど、一命は取り留めたよ。今は病院で治療中だ」  東郷を唆して殺人を誘導し、実行させた殺人教唆(きょうさ)の罪は重い。  糸峰に待っているのは、永遠の贖罪だけだ。  それでも生きていたことに安堵していると、門叶が口を開いた。 「湊君。糸峰佳乃子の本当の名前って『末延由規(すえのぶよしのり)』って名だったそうだよ」  門叶が放ったのは、男の名前だった。 「え、名前が変わってたってことですか? で、でもその名前男じゃ──」 「うん……。糸峰は小さい頃、君の家の近所に住んでいた。君と千歳さんと同じ小学校に通ってよく一緒に遊んでたと言っていた。覚えてないかい?」  過去の記憶を手繰り寄せるよう、湊は眉間にシワを刻む。  暫くして閃光が脳裏に差し込み、目を見開かせたものの、その眸は一瞬で戸惑いの色に変わる。 「まさか糸峰が、あの『よっちゃん』なのか……」 「糸峰は男で、トランスジェンダーらしい。名前も性別も女性と偽っていたんだよ」  門叶の言葉を聞き、幼い頃よく一緒に遊んでいた少年の顔が浮かんだ。  湊、千歳、そしてよっちゃん……。 「思い出した……。よっちゃんは小三の時に突然引っ越したんだ。家が近所で幼稚園の頃から転校するまで三人でよく遊んでた」 「門叶さん、糸峰は女装してたってこと?」  驚きを隠せない律が声を発した。 「一括りにそう言えないかも。俺はLGBDに詳しくはないけど、彼の心は女性なんだ。両親が離婚して転校したのも、自分の性的マイノリティが原因だと思い込んでいる。母親は否定していたけどね」 「高校の時も、俺の周りの人間はあいつを女だと思ってた。でも何でバレなかったんだ。体育だって──」  女子の制服姿で、鬱陶しいくらい纏わりついてくる。そんな糸峰とよっちゃんが結び付かない。 「苗字は母親の旧姓で、名前も変えたそうだ。学校に相談して心臓に疾患があることにして、運動全般は禁止と言うことにしたらしい。学校行事の参加も同じように対応してたんだろうね」 「知らなかった。体育を見学とか、俺は糸峰に全く興味がなかったから……」  心に(かせ)を付けて生きてきた糸峰の心情を思うと、いたたまれない気持ちにはなる。  それでも千歳の命を奪ったことは一生、許されない。 「小さい頃、同級生から虐められていたのを湊君が庇ってくれた、その時からずっと君のことが好きだったそうだよ」  門叶の話で、忘れていた記憶が頭に浮かぶ。  きっと千歳も、糸峰が幼馴染の『よっちゃん』だと気付いてなかっただろう。  知っていたら千歳のことだ、きっと彼を一人にしなかったはずだ。 「……俺が、糸峰を追い込んだのか」 「湊、それは違う」  律に面と向かって言われると、心臓が痛い程バウンドした。 「繪野君の言う通りだよ。糸峰の殺意が生まれたのは、常識を越えた湊君への執着からだ。出て行った父親や、母親からも蔑視され、本来の人格を誰からも認めてもらえなかった。そんな糸峰の拠り所は湊君だった。ただそれだけなんだ。母親ももっと早く理解してあげていればと後悔していたよ」 「湊への想いが深すぎたのか……」  呟かれた律の言葉を聞きながら、糸峰と関わることを避けていた自分を振り返った。  もっと糸峰と言う人間を知ろうとしていれば、千歳も死なずに済んだのだろうか。  そんなこと今更だけど……。 「門叶さん、あの、俺達、もう帰ってもいいですか? 用事はもうありませんよね」  律の言葉に門叶は、笑顔でいいよ、と答えていた。今日は二人の顔をみたかったからと、付け加えて。 「……じゃ俺ら帰ります」 「わかった、二人共気をつけて」 「はい、ありがとうございました」  頭を下げた律を見ながら「前と一緒だな……」と、呟いた門叶の声を、湊はこっそり聞いていた。  横目で律を見ると、陽だまりのような笑顔を門叶に向けている。  二人が醸し出す温かな温度を上回ることが出来ず、心に(くさび)が打ち込まれたように血の気の引き、湊の体温はどんどん下がっていった。  帰るか、と放った律の言葉に、小さく頷いた。   それが今は精一杯で、前を歩く背中の少し後ろを歩いた。  いつも掴んでいた、愛しい腕が遠くに行ってしまったことを実感しながら。

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