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1 祭りの前に

 プールに繋がる半透明の扉を開けた途端、生温い塩素の匂いが俺を出迎えた。水を掻き分ける心地よい音に導かれて、プールサイドに足を踏み入れる。プールの中では、一人の男が一心不乱に泳ぐ姿があった。手足をしなやかに伸ばし、ゆらゆらと体を上下に揺らすその姿は人間と言うよりも魚のようだ。迷いのない動きは、見ているこっちにまで水中の心地よさを与えてくれていた。  やがて、俺がいる出入り口に近いプールの縁に手を突き、そいつが姿を現す。そのタイミングで俺は「よ」と手を軽く挙げてみせた。すると、そいつ――北川はアクアブルーのゴーグルを押し上げて、まん丸に見開かれたその青い目を曝け出した。 「南条、先輩……?」 「相変わらず練習バカだな、北川」  笑いながら俺がそう言うと、北川は慌てた様子で水槽から這い上がってきた。藍色の髪から滴り落ちる雫を拭いもせず、俺の元へ駆け寄る姿も相変わらずだった。 「お久しぶりです、先輩。でも、どうして大学に……就活で忙しいって聞きましたけど」 「就活の気分転換に、ちょっとな。あと、昨日、西田の奴がメールくれてさ。北川がサークルの夏合宿終わっても一人で黙々練習してるから、時間ある時にでも顔を見せてやって下さいって」  北川の幼馴染みの名前を口にすると、北川は途端に眉を寄せた。 「……あいつ、余計なこと言って……」 「そう言うなよ。西田はお前のことマジで心配してるだけだって。練習熱心なのは悪いことじゃないけどさ、お前もちっとは夏休みを満喫しろよ。もう八月の後半だけど、遊ぼうと思えばいくらでも遊べるんだからな」  肩を竦めてそう言ったが、北川は眉を寄せたまま首を横に振った。 「そういうの、俺の性に合いませんから。そんなことするくらいなら、水に触れていたいです」 「ほんと、好きなんだな、お前」 「お陰さまで」  北川がふっと微かに唇の端を吊り上げる。  俺を見上げるその眼差しは変わらない。まっすぐでひたむきで、輝いている眼差し。普段涼しげで何を考えているか分からない眼差しをする北川は、唯一俺の前だけこんな目をする。それは自惚れではなく、他のサークルのメンバーもそう言うのだ。  部長でもなければタイムを出せるメンバーでもない、ただ四年生という古参で、簡単なサポートができる程度の存在。そんな俺に唯一懐いてくれる、二年生の中の急成長株である北川。懐くなら、もっと別の才能あふれるメンバーだろうに。何で平凡な俺なんかに懐くのか、未だによく分からない。  ふと頭上から甲高いメロディが流れる。それはプールの利用時間の終了を伝えるチャイムの音だった。  自主練以外大学に用事はないという北川と、そのまま一緒に帰ることになった。  北川と、こうやって肩を並べて歩くのも久しぶりだ。四年に進級した途端、就活でドタバタと動き回っていたせいで、サークルに顔を出すこともできないでいた。二年生の北川とは学科も異なれば、履修する科目も被っていない。唯一繋がりのある水泳サークルに参加しなくなければ、北川の顔を見ることもないのだ。 「夏合宿の交流大会、どうだった?」 「勝ちました。ただ、自己ベストは更新できなかったから、俺的には負けたようなもんですけど……」  俺の左隣を歩く北川が、不愉快そうに眉を寄せる。その顔は去年の夏合宿の時も見たことがある。あの時、北川は自己ベストを更新するどころか、試合に負けてしまったんだ。  その時、俺は一年生だし、これからいくらでもリベンジできる、と励ました。だが、北川は今みたいに不満そうな顔をしていて、合宿後、俺にコーチしてくれと頼み込み、夏休みが終わるまでみっちり練習漬けの日々を送っていた。それを機に北川は一気に伸びていき、今や誰もが認める我が水泳サークルのエースになってしまった。 「けど、勝ったんだろ。さすがうちのエース」 「止して下さい、その言い方。俺、あんまり好きじゃないっす。それに、俺はまだまだです。もっと、タイムを切れるようにならないと」  青い目に映り込む夕焼けの色が、あいつの中の消えない闘志のように見えた。サークル入部時は水泳初心者だったどころか、潜ることも満足にできなかったのに。そんな過去は捏造されたものだと思えてきてしまう成長ぶりだ。 だけど、平凡な俺はそのことを羨んでも、悔しいと思うことはない。悔しいと思う以前に、俺は北川の成長する姿を見ることが好きだ。北川が入部した時からずっと、練習に付き合ってきたせいかもしれないけど、俺にとってもこいつは『特別な』後輩だと思っているから。 「何か、安心したよ。お前、全然変わってないから」 「いや、変わりましたよ、俺は。大学に入る前はこんな風に何かに打ち込むことなんてなかった。ましてやスポーツなんて……汗を流すことに意味を見いだせていませんでした」 「……まあ、分からないでもないな。サークルに入部したばっかりの頃、お前嫌がってたもんな。西田に無理矢理連れてこられて心底迷惑そうな顔してたし」 「ほんと、迷惑でしたよ、あの時は。でも、俺は変われた。水泳と、先輩が俺を変えたんです。特に、先輩は。潜ることさえ満足にできなかった俺を辛抱強く指導してくれた人だから……」  くすぐったい言葉を告げる北川に、俺は思わず頬を掻いた。北川も恥ずかしいことを言っている自覚はあるのか、視線をこちらに向けないままだ。 「いや、北川が変われたのは、お前自身の力だよ。俺には、何もない」 「え」 「俺、就活続けててさ、分かっちまったんだよ。自分って、何もない人間だったんだなあってさ」  見開かれた青の目を向けてくる北川に、俺は苦笑いを浮かべた。 「もう四年の八月だってのにな、未だに自分の未来が見えないんだ。一応、興味のある分野はいくつかあるけど、今のところ内定は一つも取れてない。全部、中途半端なんだ。本当にその会社に入ってやっていく気があるのか、とか、他にもっと俺に合う場所があるんじゃないか……って、モヤモヤ考えて。でも、未だに何も見えないままだ」  見上げた空に浮かぶ千切れ雲。オレンジ色に染まったそれを一気に吹き飛ばして、俺も綺麗な空を見たいのに、見えない。 「就活前、お前と同じように水泳ばっかりやってた時はこんな風に考えたこと一度もなかったんだ。俺はお前と違ってサークルに貢献できるようなタイムなんて出せないし、選手っていうよりはサポーターとか盛り上げ役の立ち位置だった。でも、それを不満に思ったことはないんだ。ただ、水に触れているだけで満足だった。俺もお前と同じで大学に入って初めて水泳にはまったけど、今思うと、それより前から水泳やってたみたいに錯覚するくらい、俺にとって水泳って大切だったんだなって」 「先輩……」 「北川が入部してきて、楽しみが増えた。お前が成長する姿を見ることだ。潜れるようになってから、主力選手としてのし上がって行く姿を見るのが快感だった。 水泳を始めたきっかけはただの気まぐれ、大学生になって何か新しいことをしたかっただけだけど……俺、自分が思っていた以上に水泳サークルの存在に助けられてきたんだなって思うよ。あそこがあったから、俺、就活するまで自分のこと、何もない人間だって思わずに済んでた。 けど、これからはちゃんと向き合っていかないとな。水泳とか、成長して行くお前ばかりじゃなくて、この四年、見てこなかった自分自身とさ」  ふと気がつくと、俺の話に耳を傾けていた北川が俯いてしまっていた。ついネガティブな話をしてしまった、と反省しつつ、俺はその頭部にそっと自分の手を置く。しっとりと濡れた北川の黒髪は同性とは思えないくらい触り心地が良くて、振り払われないことをいいことにその髪を梳くように撫でた。 「先輩」 「ん?」 「俺は……好きです」  不意に告げられた「好き」に俺が首を傾けると、北川が勢い良く顔を上げた。 「南条先輩の水泳、好きです。その……上手く言えないですけど、先輩、いつも楽しそうに泳いでるって見ていて思うから。タイムが速いメンバーなら他にたくさんいるけど、泳いでいて『楽しい』って伝わってくるのは、南条先輩……の泳ぎ、だけだから」  湿気を孕んだ南風が、北川の濡れた前髪を微かに揺らす。  珍しい。いつもクールで淡々としか話さない北川が、どこか必死だ。俺のこと、励ましてくれているつもりなんだろうか。 「ありがとな、北川」  北川の頭をぐしゃぐしゃと掻き混ぜるように撫でてそう告げると、北川はきゅっと眉を寄せてそっぽを向いた。何か怒っているようにも見えたが、こうやって撫でられるのが嫌なんだろうか。けど、こんな風に北川の頭を撫でるなんてしょっちゅうだったし、今更のような感じもするが。  そっと手を引っ込めると、ふと、低い音が一定のリズムを奏でているに気がついた。この腹に響くような音は、太鼓か。  ふと正面を見れば、浴衣姿の人たちがぞろぞろ歩いているのが見える。みんな、次々と左手にある雑木林へ向かっていた。  確かあの奥は神社があったはず、とそこまで思い立ったところで、俺はあ、と小さく呟いた。 「夏祭り、今日か」 「……そう言えば、毎年あの神社でやってますね」 「そういや、俺、あそこの夏祭り行ったことないな。北川はあるか?」 「いえ」 「そっか。まあ、お前、あんまり騒がしいとこ好きじゃないって言ってたもんな」  俺が苦笑混じりにそう告げると、北川は素直に頷いた。  飲み会や打ち上げもちょっと出てすぐに帰りたがるしな。だから俺も北川を遊びに誘ったことは一度もない。というか、サークル絡みじゃないことでは北川と会ったことすらもない気がする。 「今から行きませんか、夏祭り」  だから、次の瞬間北川の口からそう飛び出した時はびっくりして、思わずまじまじと奴の顔を見つめてしまった。俺を見つめ返す北川の青い目はいつも通り涼しげだ。「今日も練習、お願いします」と挨拶してくる時と同じ、真面目な顔をしていた。 「珍しいな、お前がそんなこと言い出すなんて。ひょっとして祭り好きとか?」 「いえ。というか、祭り自体、一度も行ったことないです」 「マジ?」 「はい。でも、何となく『今は』行ってみたい気がして。ダメですか?」 「いや、ダメじゃないけど……」  唐突な誘いに戸惑いながら北川を見つめていると、ふとあることに気がついた。  一見、いつも通り涼しげな表情を浮かべている北川。けれど、その肩は微かに震えていて、その視線もあちらこちらを彷徨っていて落ち着きがない。 「北川?」  思わず声を掛けると、北川は何かを恐れるようにびくっと体を大きく震わせたかと思うと、おずおずと薄い唇を開いた。 「……夏祭り、先輩と一緒に行きたいんですけど……ダメですか?」  普段より固さを含んだその声に、俺は不覚にもどきり、としてしまった。 (おい、『どきり』って何だ。『どきり』って、北川に対して聞こえてくる音じゃないだろ)  自分の胸の音にそうツッコミを入れてみたが、返って来るのはいつもより速く感じられる心臓の音だけ。 「……先輩?」  北川が怪訝そうに俺を呼ぶ。それにはっとした俺は、慌てて口を開いた。 「っお、おう! いいな、祭り、行こう!」  自分でも大げさなくらい明るい声でそう告げると、北川の返事も聞かずに俺は駆け出した。相変わらずどきどきと忙しない音を立てている胸の音が、聞こえてくる太鼓の音で掻き消されるのを密かに期待しながら。

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