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2 祭りの中で
所々苔の生えた石段を上り切ると、そこには屋台の列が作り上げた懐かしい夏祭りの光景が広がっていた。色鮮やかな浴衣と、屈託のない子供の笑い声、俺の五感を刺激してくる食べ物の屋台。
俺の中で一番新しい「夏祭り」の記憶は二年前。大学生になって初めてできた彼女とのデートだった。
でも、その彼女とのデートよりも、今が落ち着かない。相手はパステルピンクの浴衣を纏った女の子じゃなくて、青のTシャツにジーパン姿という出で立ちの後輩なのに。
その落ち着きなさからか、それとも祭りの会場という特殊な環境のせいか、俺は急に空腹感に襲われた。漂っているソースの匂いや甘いシロップの匂いに我慢できず、俺は食べ物の屋台へ直行した。
「焼きそばうめぇ……綿菓子も久々に食うとうめぇ……」
右手に焼きそば、左手に綿菓子、それぞれの両腕にたこ焼きと飲み物が入ったビニール袋を下げた俺が思わずうっとりと呟くと、隣の北川が小さく肩を竦めた
「相変わらずよく食べますね、先輩」
「だって腹減って死にそうだったからさぁ。っていうか、北川は全然食べてないだろ。北川も食べてみろって。この焼きそば、超うめぇぞ」
焼きそばをずいっと北川の前に差し出したが、北川は途端に眉間に皺を寄せて首を横に振った。
「いいです。俺はこのラムネで十分なんで」
「お前さ、前から思ってたけど、ちょっと小食すぎないか? けど、その割りにきっちり筋肉はついてるんだよなあ……マジで謎なんだけど」
「朝と昼はきっちり食べるようにしてるんです。そもそもジャンクフード自体が苦……むぐっ」
隙をついて、無防備な北川の口に焼きそばを突っ込んでやると、途端にその青い目がぱっちりと見開かれる。
そんな北川に、俺はにやり、と笑ってみせた。
「どうだ、美味いだろ」
「……先輩、人の話は最後まで聞いて下さい」
じと、と北川が不満げに俺を睨む。
「でも、美味かっただろ?」
「まあ、思っていたよりは」
「だろー? こういうところのメシって何か美味いんだよな~。値段が安い訳でもないのにさ、不思議だな」
「……あ」
俺が再び焼きそばを口に入れたところで、北川が不意に声を漏らした。
何かに驚いたようにこっちを見ているが、俺は何のことか分からず首を傾げた。
「ん?」
「……いや、何でも……」
ぷいっと顔を背けられてしまった。
一体何なんだ。俺の方をそんな驚いた顔で見て。まるで、見ちゃいけないものを見てしまったような反応だったが、何を見てたんだろう。俺はただ焼きそばを食べていただけで……。
と、そこまで考えて、俺はふと気がついた。北川の口に触れた割り箸を、俺はそのまま気にせず自分の口に入れてたことに。
それって、間接なんちゃらになるんじゃ……。
そう思った途端、口の中の焼きそばが熱を持ったように感じられ、俺は慌てて北川から目を背けた。
さっきからいまいち自分のことが分からない。普段と違うことは北川と二人きりで夏祭りに来てるってだけなのに。祭りで食べる焼きそばがやたら美味く感じるのと同じで、祭りの空気で変な気分になってるんだろうか。
とにかく冷静になろうと、ポケットに突っ込んでいたペットボトルを手に取る。喉を通っていく水の冷たさを感じると、火照った頬から熱が少しずつ引いていく気がした。
「よ、よし、ある程度食ったから何か遊んでいくか……あれ?」
そう言いながらようやく隣に視線を向けることができたが、そこに北川の姿はなかった。
「北川?」
慌てて振り返ると、北川はある一点を見つめたまま立ち止まっていた。首を捻りつつ北川の元に近寄ったものの、北川はぴくりとも動かない。
一体何をそんなに熱心に見つめているのだろうと、その視線の先を追いかけると、
「……金魚すくいか」
長方形の浅い水槽の中に、小さな花びらのような赤と黒があちらこちらで泳いでいる。その水槽の周りに集まった子供や浴衣姿の人たちが思い思いにポイを振り、狙いの金魚を掬おうとしている。何てコトない、祭りの定番の風景だ。
けど、こんな風景でも北川には新鮮に映るのか、身じろぎ一つせず、じっと水槽を見つめている。その姿が更にいつもより北川を幼くさせているように見えて、またひとつ、俺の胸の中で不思議な音が響いた。
北川と知り合って二年。その二年で一度も聞いたことのない音だ。
戸惑いは大きいけど、嫌な感じはしない。
「やるか、金魚すくい」
「えっ」
ようやく俺の方を向いた北川を横切り、俺はねじり鉢巻をしたおっちゃんに二人分の料金を手渡した。おっちゃんから貰った二つの青いポイの内の一つを、後ろからやってきた北川に差し出す。
「ほい、俺の奢り」
「俺、やるって言ってないんですけど」
「顔にはやりたいって書いてあったぜ。ほら、お金払っちまったんだし、やろうぜって」
歓声を上げている親子と懸命にポイを操っている浴衣姿の女の子の間に割って入り、俺たちもポイを水槽の水面に走らせた。
子供の頃嫌という程やったし、こんなのはコツを掴めばあっという間だ。そう思ってやり始めたが、俺のポイは三回水面に付けたところであっさりと破れてしまった。
「……うわあ」
でかでかと空いた穴に思わず苦笑いしていると、俺の左隣で「あ」と小さく声が上がった。そちらを見てみれば、北川が目を丸くして固まっていた。その手に握られたポイには、俺と同じく大きな穴が空いてしまっている。
「先輩、俺の、穴が空いたんですけど」
「安心しろ、俺もだ」
俺の言葉に北川がぱっと振り返る。俺のポイを見た北川がうっすらと笑った。
結局、俺たちの戦果は店主のおっちゃんから貰った一匹の金魚だけだった。
「取れなくても貰えるんですね」
「まあ、所謂残念賞みたいなもんだな。……っていうか、お前、マジでやったことないんだな、金魚すくい。子供の頃ならみんな一度は体験してるもんだと思ってたけど」
「金魚すくいどころか、祭り自体行ったことなかったんで」
そう言いながらも、北川の眼差しは透明な袋の中でうろうろしている金魚に向けられたままだ。普段涼しげなその青の瞳の奥がきらきらと輝いているのを見て、また胸の奥で小さな音が鳴ったような気がした。
「けど、二人ともヘタクソだったなあ」
「俺は『初心者』だったから、仕方なかったと思いますけどね」
「あ、その言い訳ずりぃな。俺が余計かっこ悪いじゃねえか」
思わず北川を軽く睨んだが、北川はくす、と小さく笑っただけだった。
今日の北川はよく笑うな。そのせいで、俺の中では終始不思議な音が鳴りっぱなしだ。けど、悪くないと感じるくらいに慣れてきてしまっている。
「そういえばお前、サークルに入った時もそう言ってたよな、お前。泳ぐどころか、潜ることもできないって真顔で言うから嘘だと思ったんだよな。でも、プールサイドでいきなり足を滑らせて……」
脳裏に浮かんだ滑稽な北川の姿に、噴き出しそうになりながら話そうとした直後、俺ははっと顔を強ばらせた。
それまで嬉しそうに金魚を見つめていた北川の顔が、見る見る内に青くなってしまったから。
「北川、どうした?」
「……っ」
俺が呼びかけた途端、ぐにゃりと表情を歪めた北川が何かを堪えるように口を手で押さえ、俯いてしまった。
「北川っ!」
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