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3 祭りの後ろで
真っ青な顔をしていた北川を引っ張り、やってきたのは神社の裏手。屋台もなければ人もいない空間。そのお陰で、俺は今更空の色がオレンジ色から紺色に変わっていることに気がついた。
「大丈夫か?」
「……少し人に酔っただけだから、大丈夫っす」
草むらに座り込んだ北川が苦い顔のままそう答える。俺は北川の頬に買ってきたミネラルウォーター入りのペットボトルを押し付けた。「ひ」と小さく悲鳴を上げるその声に苦笑いしつつ、その左隣に腰掛ける。
「すみません、俺から誘っておいて」
「何で謝るんだよ。俺は美味いもんたくさん食べられたし、金魚すくいもすぐ破れちまったけどそれなりに楽しめたぜ。北川は違うのか?」
明るく笑いながらそう言うと、北川もつられたように唇の端を上げた。その小さな笑みに俺の心臓がどきり、とまた変な音を立てたので、慌てて奴から視線を逸らした。
祭りの喧騒は聞こえているが、そのボリュームが小さく感じる。神社の裏手にいるだけなのに、祭りから大分遠ざかった場所にいるみたいだ。
「……先輩に助けてもらうのは、これで二度目、ですね」
「え? ……あ、『助けてもらう』ってもしかして、お前がサークル参加初日で溺れた時のことか」
「はい。プールサイドで足を滑らせて、そのままプールに落ちて。泳ぐどころか、潜ることさえできなかった俺はパニックになって、水中でジタバタしてました。そしたら、先輩が助けてくれたんですよね」
「うちのサークル、初心者も歓迎って謳ってるけど、お前程泳げなかった奴はいなかったよ。だから、俺だけじゃなくてサークルの連中はみんな覚えてるし、たまに飲み会でその話をする時もある。お前にとっちゃ嫌な話だろうから、黙ってたんだけどな」
「いえ、別に、気にしてません。過去の話ですから」
ちら、と北川の方を見る。その横顔は不満げではなく、さっき見た時と同じ淡い笑みが浮かんでいた。
「そうだよな、もう過去の話だな。あの時溺れたお前はもういない。潜ることができるどころか、うちのサークルの主力になってる」
「……今年の夏は、タイム、出せませんでしたけどね」
「そんなの、来年また取り返せばいい話だ。それに今年は秋の交流大会だってある。お前なら大丈夫だ。だから、きっと――」
そう言った途端、北川はゆっくりと俯いてしまった。その首が、弱々しく横に揺れるのを見て、俺は息を呑んだ。
「俺、夏合宿の時に気がついたんです。俺が泳げるのは、俺一人の力じゃないんだって。泳げるのも、誰よりも速いタイムを出せるのも、傍にずっと、先輩がいてくれたからだって。現に、夏合宿の時、俺は何度も泳ぐ感覚が分からなくなることがありました。気張っていないと、ふとした瞬間に溺れそうになるんです」
「溺れるって、まさかそんな」
「本当です。俺は……先輩が傍にいないと、ダメなんです」
どん、と響き渡る低い音。次第に激しさを増すその音は、祭りの方から聞こえているのか、それとも俺の胸の奥から響いているのか、今の俺にはよく分からなかった。
ただじっと、俯いたままの北川を見つめることしかできない。
「先輩にとって、俺はただの後輩。それは分かってます。
でも、俺は違う。先輩はただの先輩なんかじゃ、ない。
俺が溺れたあの日、今でも覚えてる、俺を助けるために水中に飛び込んだ先輩が、俺に向かって手を差し伸べるのを。その顔が溺れている俺以上に必死だったことも、俺の腕を掴んだその手が熱かったことも、全部。あの時から俺は、ずっと先輩だけを見てきたんです」
北川の持つ袋の中で、赤い金魚がゆらゆらと揺れている。どくり、どくり、と甲高く響く俺の鼓動に合わせるように。
「思いを伝えたいとか、先輩と付き合いたいとか……そういうことを望んでいた訳じゃなかった。ただ、傍にいられたら、それだけで満足だったのに……先輩のいない夏を経験して、そんなささやかなことだけじゃ自分はこの先泳げないって、思ったんです」
ゆっくりと顔を上げた北川の目が、俺を映し出す。
その表情に、いつもの涼しげな色は全くなかった。まるで苦痛に耐えているかのような顔だ。けれどその目はまっすぐに俺に向けられている。俺への思いを、余すことなく伝えようとしている。
太鼓の音が大きくなる。頭の芯まで響くようなその音の中で、北川がそっと俺に顔を寄せた。重なった唇を、俺は避けられなかった。北川の唇は同性とは思えないくらい柔らかくて、微かにプールの味がした。
「……っすみません」
北川のその切羽詰まった声で、俺はようやく唇から感触が消えていることに気がついた。俺から少し距離を取った北川は今にも泣き出しそうに青い目を潤ませていて、その肩が小さく震えている。
「先輩、俺……俺が、この先、先輩が卒業しても……俺一人になっても泳いで行けるように……先輩との思い出が欲しい」
「思い出……?」
「……今だけでいい。気持ちがこもってなくてもいいから……それで、全部諦めが付くから……だから先輩、今だけ、俺のこと見て下さい。後輩としてじゃなくて、俺が先輩を思う気持ちと同じように」
「北川……」
「俺は何をされてもいい。先輩にされるなら、どんなことでも受け入れる。だから、先輩、今だけ、俺を見て」
祭り囃子が響く中、俺の体は北川へ寄せられて行く。
北川はそんな俺を見て微笑み、静かに瞼を下ろした。そこに、ずっとサークルで見てきた可愛い後輩の姿はなかった。
人々の歓声と祭囃子が、雑木林の中にいても聞こえてくる。その音が、今俺の体の中を支配する性欲を煽っているように感じられた。その思いのままに、曝け出された北川の肩に歯を立てる。すると、北川は大きく体を揺らし、ナカに収まった俺のペニスをきゅっと締め付けてきた。その刺激に俺はますます興奮して、北川の腰を揺さぶりながら、その日に焼けた肩を何度も甘噛みする。北川の汗は、唇と同じくプールの味だった。馴染みの味なのに、今はそれが美味くてたまらない。もっと欲しくなって、何度も噛み付いてしまう。微かに鉄の味もするのは、噛みすぎたことによる出血だろう。でも、俺は噛むことを止められない。北川のナカを執拗に突くことも止められない。
北川は俺に尻を突き出した格好のまま、目の前にある大木にしがみついている。たまに喘ぐ声が聞こえるが、すぐに祭囃子と歓声にかき消されてしまう。もっと聞きたい、という思いもあるが、このとぎれとぎれに聞こえる声だからこそいいという思いもある。
と、不意に北川がこちらをぎこちなく振り返った。ぽろぽろと涙を零す青の瞳が俺を映し、ふにゃり、と歪む。
「……っせん、ぱい……っ」
掠れたその北川の声は、祭り囃子や歓声を吹き飛ばすように俺の中で大きく響いて。そしたら肩に噛み付くだけじゃ我慢できなくて、そのまま北川の唇を奪っていた。途端にナカが更に締まって、俺のペニスは一気に限界を迎える。
あ、ナカに出すのはまずい。ゴム、付けてないし。
そう思った時にはすでに遅く、俺は北川の中に自分の昂りを吐き出してしまった。けど、間近で見た北川は見たこともない無邪気な笑顔を浮かべていた。
祭囃子から鈴虫の合唱に代わり、祭り後の後片付けで残っていた人々の話し声も途絶えた頃。そのタイミングを見計らい、俺と北川は神社を抜け出し、誰もいない石段を静かに下っていた。
誰が来るとも分からない雑木林の中で、あれから何度体を重ねただろうか。セックスで疲弊した体を夜風で冷ましながら、草むらに身を潜めている間、俺たちは一度も言葉を交わさなかった。
それは今も同じで、俺より一歩先を行く北川の背中が遠い。まるで北川に初めて俺の自己ベストを抜かされた時に似た、何ともいえない気持ちが俺の中に停滞している。
そして、北川が一足先に階段を下り切った時、ようやくその顔をこちらに向けた。
「先輩、ありがとうございました」
「え」
「俺のワガママ、聞いてくれて、ありがとうございました。これで、また泳げる気がします。一人でも、大丈夫です」
微かに口角を上げ、落ち着いた声音でそう告げる北川。セックスの最中に涙を流していた目の下はほんのり赤みがある。が、その目はいつも通り涼しげで激しい感情は見当たらない。
「北川……」
何か言わないと。そう思いながらもその名前を呼ぶことしかできない俺に、北川がくるりと背を向ける。
「俺、先に行きます。電車、乗らないと帰れませんし。それじゃ、また」
一歩、また先に踏み出した北川。今度は振り向くことなく、そのまま去っていてしまう。
きつく拳を握りしめ、俺は残りの石段を一気に駆け下りた。
「北川っ!」
その手首を掴んで引き止めると、北川が勢い良く振り返った。青い目を見開き、その唇を薄らと開けたその表情は、水中で溺れていた北川の表情と同じだった。
そうだ、あの時も、北川はまっすぐに俺を見ていたんだ。
あの時だけじゃない。ずっと、俺のことを見ていた。
祭囃子が聞こえる中でしたセックスの時だってそうだった。
「……先輩?」
「一人で行くなよ、北川。一人でも大丈夫とか、言うな」
掴んだ北川の手首に力を込めると、北川が狼狽えたように後ずさりする。けど、俺は手の力を緩めず、じっとあいつの目を見据えた。
「思い出だけでいいなんて、言うなよ。俺、お前に言われるまでずっと知らなかった。お前が、どういう目で俺のこと見てたのか……いや、まだ分からないこともある。お前の思いがどれくらい熱いのか、たった一度きりの告白とセックスじゃ、分かんねえよ」
「……先輩……」
「正直、俺自身がお前のことどう思っているのかは、あんまり分からないんだ。けど、お前の気持ち、俺はもっと知りたい。お前の泳ぎを、俺は一番近くで見守っていたい。あれで終わりだなんて、嫌だ」
北川の眉がどんどん下がり、目にはうっすらと涙が浮かぶ。その弱々しい表情に俺は苦笑を漏らした。
「だから置いて行くな。一緒に行こう、北川。教えてくれ、お前がまだ隠してる気持ち、全部知るまで俺、今日はお前から離れるつもりないからな」
「……はい」
涙を零しながらもはにかんだ北川。その涙を拭おうと北川の手首をそっと離す。すると、今度は北川から手を掴まれて、きつく握りしめられた。その触れ合いにくすぐったいものを感じながら、俺は北川の手を引いて歩き出す。
俺たちの背後から、消えたはずの祭囃子が背後から微かに聞こえて来たような気がした。
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