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プロローグ ー side 吉澤

 六年ぶりに会った男のたばこの煙が、やけに強く目にしみた。  二度と会えないと思っていたのに、見世物小屋のような四方ガラス張りの喫煙室にて、田所は俺を見るなり「おばけでも見たような顔だな」と相変わらず冷ややかな表情で言い放つ。 「いや、そりゃだって驚くって。驚くでしょ、普通」  田所に気づかれないよう、ガラスの向こう側から何度見したかわからない。記憶の底をひっくり返すうちに、呼吸が幾度も止まりそうになった。  髪型だって昔と変わっている。体つきもどこか筋肉質な印象を受けるのに、俺はまるで昨日のことのように田所を思い出している。 「俺も驚いてる」 「うそだあ。だって田所、おまえ、今の顔見てみなって。表情筋死んでるよ?」  そんなわけあるか。田所は俺から顔を背けるように煙を吐き出すと、ほんのわずかに口元を歪めたようだった。それがこいつなりの笑みだったかもしれないが、煙が真実を覆い隠してしまう。 「久しぶりだな、吉澤」 「何年ぶりだよ、ほんと。高校卒業以来だよな?」 「……ああ、本当に」  田所の返事が一拍遅れた気がして、胸の奥の古傷が疼く。次の会話へとうまく繋げられずに、妙な静けさが室内に満ちた。 「ほら、吸いにきたんだろ?」  沈黙を破ったのは、田所の方が先だった。  紺色の作業着のポケットからライターを取り出したかと思いきや、田所が俺に差し出してくる。慌ててスーツの内ポケットをまさぐり、田所の灯した火へと俺は顔を寄せた。  ひりつくようにたばこの先端が燃えていく。息を吸えばたちまち身体中に満ちていく、重い空気。いつもと変わらないはずのこの味が、なぜだか今日はひどく恋しかった。 「吉澤」  座れよ、とわざわざ口にしないのが田所らしい。閑散とした喫煙室の主のように真ん中の席を陣取っていた田所が衣擦れの音とともにスペースを生んだ。  年々厳しくなる社内ルールは、喫煙タイムさえ時間制にしてしまった。十五時からの喫煙タイムは社内に散らばる喫煙者たちがぎゅっと集まりがちで、席もこんなふうによく譲り合うけれど、珍しく今日は俺たち二人きりだ。  それでも俺は、吸い寄せられるように田所の隣へ腰を下ろした。  まだ俺たちが子どもだったころ。未熟で、浅はかで、今より幼さを残す体の中に、今にも暴発しそうなエネルギーを抱えて持て余していたあのころ。  俺は少しでも田所に近づきたかった。  こんなふうに席だけの話じゃない。隣にいることで、田所のすべてを知れる気がした。  ありきたりな言葉に当てはめるなら、憧れ、だったのかもしれない。箱庭のような世界の中、あのころの俺はきっと、全身で田所に憧れていた。 「もうずっと会ってなかったんだな、俺たち」  田所が遠くを眺めながら言った。  奏でられた低音は腹の内側に隠していた淀みを静かに、だけど強かに揺らしてくる。 「似合うな、たばこ」 「ん?」 「田所の吸ってるところ初めてみたけど、案外似合うって言ったんだよ」  ずるいぐらいに。喉元まで出かかったその言葉は、唾液とともに飲みこんだ。 「田所がここにいるってことは、おまえもこの会社に就職してたってこと?」 「俺もおまえもおばけじゃなければ、そうなるな」 「あのな、おばけなわけないだろ。なんならおまえの顔、俺が試しにつねってやってもいいけど?」  唐突に視線がぶつかる。田所の眉間がわずかに寄った。  昔から大して顔色変えないくせに、どうしてこんなときばかり俺は気づいてしまうんだろう。  田所へと伸びかけた手を慌てて引っこめ、なにやってんだよ、ときつく自分を戒めた。  触れてしまえば最後、二度と離れられなくなるような仄暗い感覚が、背後にぴたりと寄り添っている。 「冗談だよ。冗談、だから」  なんとか笑えた。  単調な言葉で場を取りつくろいながら、脳内ではすでに次の言葉を探している。職業病みたいなものか。もしくは長年の癖なのか。 「でも、こんなに気づかないもんかな? 俺が田所を見つけられないはずないんだけど」   自分の声が必要以上に大きく響く。恥ずかしさを紛らわすようにたばこがどんどん短くなる。 「無理もないだろうな。昨日付けで本社の配属になったばかりだから」 「ああ、技術部って実地も含めて二年ぐらい研修やるんだっけ? 千葉のでかい工場のほうでやってる、って聞いたことある」 「まあな」 「なあ、所属どこ? うちの作業着着てるってことは実施部署のどこかっていうのはわかるんだけどさ」  田所が口を開きかけたタイミングで、着信音が鳴った。自分のスマホじゃない。 「……吉澤、悪い。呼び出しだ」  はい、田所です。取り出した社用のスマホを耳と肩で押し挟みながら、携帯灰皿の中で火をもみ消していく。電話の相手はきっと田所の直属の上司か先輩にあたる人なのだろう。  丁寧な言葉遣いだった。スムーズに出てくる尊敬語は、田所の空白を嫌というほど物語っている。 「再会したばかりなのに悪い。もう戻らないと」  通話を終えて、スマホをポケットへ戻しながら田所が立ち上がった。 「いいよ、気にするなって」  咥えたたばこの隙間から出た見送りの音はくぐもった。だけどそれぐらい鮮明さに欠けていたほうが、今の俺にはちょうどいい気がした。 「じゃあひと足お先に。営業課の吉澤さん」 「え、なんでわかったの」 「社内の男でスーツ着てるやつは、大体管理部か営業課だろ。あとは、勘だ」  そのスーツ、よく似合ってる。  ひととき目を細めたと思いきや、田所は軽く手を上げて喫煙室から出ていった。  さっきまで田所のいた椅子の座面がわずかにへこんでいる。そのへこみをゆっくりと指の腹でなぞってみる。なぞったところで、そこにあるのは記号的な存在ばかりだ。 「ずるいやつ」  ぼんやりとした視界の中で、煙が泳いでいる。ひときわ深く、息を吸う。田所が残した甘苦い香りを肺の中で閉じこめてしまいたくて、ほんの数秒、呼吸を止めた。  

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