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第1話

 昨日の吉澤の声が、まだ耳に残っている。  田所さん、すみません。あと五日だけどうにか巻いてもらえませんか。  そんな無茶を引き受けた自分を、今は少しだけ呪っている。  建設途中の高層ビルの現場は、夏の熱気がこもって灼けるような暑さだった。蒸し器の中に閉じこめられたように、体温と汗がヘルメットの下で逃げ場を失っている。フロアに点々と設置された大型扇風機と、数年前から爆発的にシェア率を伸ばしてるファン付きの空調服。こんなものに必死に縋りつかなければ、昨今の炎天下の中で仕事をこなすことなんてほぼ不可能だ。 「TSE(ティーエスイー)もオートメーション化を早く進めてくれんかな。そうすれば現場の俺たちも、もうちょっと負担が軽くなるのに」  おまえからもしつこく上に掛け合ってくれよ、田所主任。長いため息とともに現れたのは、俺の先輩で同じく主任の佐々木(ささき)さんだ。  三基のエレベーターを設置予定のうち、一基目の配線ルートの最終チェックを進めながら、ぶわりと汗が背中を伝っていく。佐々木さんが水分補給を終えたタイミングで、作業を続けながら俺は軽く頭を下げた。 「すみません。今日は応援頼んでしまって」 「午後から電装課が入るんだろ。着工遅かったのに随分巻いてんのな。というかよくここまでこぎつけたな。申し訳ないけど、こりゃ田所の現場コケるぞ、って思ってたのに」 「おそろしい冗談言わないでください」 「ははっ、ごめん」 「でも佐々木さんなら、俺の無茶に合わせてくれると思ったんです」  生意気言うようになったな、おまえも。佐々木さんに肘で軽く小突かれた。  実際、下請けの職人の数を増やすことも考えなかったわけじゃない。だが手配が間に合わなかった。電装課が担当する、エレベーターの制御盤の搬入と通電の日程が迫っているのに、作業が追いついてないと現場から泣きが入ったのが昨日の夕方だった。  もともと無理に無理を重ねてきた現場だった。電装のスケジュールも今日の午後になんとか繰り上げてもらった経緯がある。施工課、そして現場責任者である俺のプライドにかけてでも、ここはなんとか間に合わせなければならなかった。 「俺も、今までに何度も冷や汗かきながら納期に間に合わせてきたけど」  佐々木さんがこんこん、とエレベーター内の壁をノックする。 「全体的に工期が遅れていても、ゼネコンはいつもケツは動かせねえの一点張りだろ。そのしわ寄せは全部俺たち、下請け業者に来るんだから辛いよな」  そうですね。頷きながら脳裏に浮かぶのは、昨日俺のいる課にまで足を運んできた、昔なじみで営業課の吉澤の姿だ。 「納期もさらに五日ほど縮めてほしいそうですよ」 「こいつの据え付けに取りかかれたのって、予定より一ヶ月遅れじゃなかったか? そこからさらに五日?」 「最初は一週間って言われました。でも粘って交渉してくれて、五日だそうです。後工程で巻き返しを図ってるんでしょうね」 「まじかよ。それにしても短納期って、田所もよく承諾したな」 「吉澤の頼みですから」 「あー、あのエースくん」  フロアの至るところから聞こえてくる、ボルトやビスを打ちつける音。空調服に備わるファンのモーター。安全チェックのため、頻繁に作業員たちの声が聞こえてくる。そんなありとあらゆる騒音を押しのけながら、佐々木さんの声は俺の鼓膜にたどり着く。 「なら同期のよしみで田所は無茶するしかねえか」 「すみません。俺が連日出張って現場回せば、間に合う見通しがついたので」 「まあ、無茶だけはするな。おまえのことだって俺は買ってるんだ」  午前十時の休憩もまだというのに、持ち場へと戻っていく佐々木さんの襟足からは大粒の汗が滴っていた。  思い出したように、首に巻いたタオルで顔中の汗をぬぐう。適当に選んで使い続けている柔軟剤の匂いは、この暑さの中ではあっという間に汗の酸っぱい臭いへと変わる。  ふと目に留まるのは、作業着とよく似た色でタオルに印字された「東都昇降機株式会社(とうとしょうこうきかぶしきがいしゃ)」の文字だ。一年ほど前、外回り用のノベルティとして営業課が作り、従業員にも配られたものだった。  それまじで使ってる人間、田所ぐらいかも。いつだったか、吉澤から呆れとも驚きとも取れる顔で言われたのを覚えている。 「……ほっとけ」  俺の勝手だ。これを使うのは自分の勝手。  作業のスピードが上がったのも、あいつのためじゃなく、俺の意志だ。  *    今日の現場での終礼を終えて、このまま直帰するという佐々木さんとは駅前で別れた。  俺だってそうしたいのは山々だが、足はTSE東京本社のある豊洲へと向かっている。  唐突に鼓膜を揺らす軽快なメロディー。続けて流れる、構内アナウンス。  電車が来る。鈍い足取りで乗り込んだ先、視界に偶然飛びこんできたのは、先月から張り出されているTSEの車内広告だった。  通称TSE。東都昇降機株式会社は、創立七十年超えたエレベーター・昇降機メーカーだ。国内シェアTOP3に名を連ね、古くから続くゼネコンや地方自治体との繋がりが、TSEの名前を全国へと押し上げた。  そんなTSEの東京本社内にある技術本部・施工課に所属し、今年で俺は入社六年目になる。  スマホで明日の天気を確認し終え、俺は再び目線を上げた。  TSEの車内広告の中。施工中のエレベータを背景に点検作業を行う、ヘルメットを着用した男女のモデルが爽やかに笑いあっている。  だが、実際のところはどうだろう。爽やかさなんてものを、就職してから一度も感じたことがなかった。  少しでも残業を減らし、待遇をよりよいものにしようと躍起になって、世間の大手企業はあらゆる方針を打ち出している。しかしTSEでは残業の扱いがいまだ各自の努力義務レベルだ。  そんな努力義務を堂々と怠る俺の頭はすでに、やるべき仕事の算段を立てている。  せめて。今日中に次の現場の図面にチェックを入れて、設計課へ戻しておきたい。  ため息にならないよう、冷房の効いた電車内で細く長く息を吐く。仕事のしわ寄せは、残務へと姿を変えるばかりだった。   *  定時の十八時をとっくに過ぎていても、ビルのフロアは満遍なく煌々と光を放っている。  帰宅する社員たちの波に逆らいながら入った、ロッカールーム。  汗だくになったインナーシャツを脱ぎ捨て、軽く濡らしたタオルで上半身をぬぐう。着替え用のシャツ、そして日々置きっぱなしの本社用の作業着に袖を通した。  ロッカーの扉を閉める直前、視界に入ったのは「万が一に備えて常備してある住人」たちだった。クリーニング屋から戻ってきた当時のまま、ビニールをかぶり続けるワイシャツとジャケット、就活中に買ったネクタイ。作業着は毎週末持ち帰るようにしているが、こいつらはもう随分と長い間ここに住んでいる。  毎日身につけなくなった途端、ネクタイを締めたとき、喉元に絡みつくような息苦しさが気になりだした。  だが、どうにもあいつはそうじゃないらしい。  吉澤が俺に納期の短縮を頼みに来たとき。あいつはネクタイを緩めもせず、中、高等部と同じ学校に通っていた同級生の俺の前で、躊躇することなく頭を下げてきた。  息苦しくないのか。場違いな思いが、吉澤のつむじの上で気泡のように浮かんだ。そして、そんな自分を恥じるように吉澤の頼みを「わかった」の一言で引き受けたのだった。  ロッカーに鍵をかける。鏡は一瞥するだけに留めた。どうせ見せる人間もいやしない。 「……吉澤か?」

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