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第2話
「あ、田所、お疲れ」
ロッカールームを出たところで、階段を上がってきた吉澤と鉢合わせた。外回りの多さからだろうか、階段を嫌がる上司たちが多い中、吉澤は丸みのある目元を歪めることなく俺を見た。
今から四年ほど前、TSEで久しぶりの再会を果たした、営業二課の吉澤。今年から主任クラスへと昇進、今や「営業課の若手エース」とも囁かれ、大手ゼネコンの新規開拓や大口案件には大体こいつが絡んでる。そのおかげとでも言うべきなのか、定時をとっくに過ぎていても吉澤とこうして顔を合わせる機会は多かった。
「疲れているんだろう」
「なんだよ。まさか、そんなに俺の顔やばい?」
「喫煙室は三階。ここは四階。おまえ、間違えてないか?」
吉澤の所属する営業課、それから俺たちがよく利用する喫煙所は三階にある。ここ四階は施工課や設計課、保守管理課といった実施部署の詰まったフロアだ。
四階に用があるならそうはっきりと言えばいいものを、吉澤は俺のからかいにスルーを決めたようだった。
「あのさ、田所って今日現場から直帰じゃなかった?」
わずかに目線を泳がせながら、吉澤が言う。
社内の情報共有アプリで俺のスケジュールに目を通したんだろう。確かにスケジュールには「直帰」と書きこんだ記憶がある。
「まあ、事務仕事がたくさん溜まってるからな」
「ごめん、ほんっとごめん、俺のせいだよな」
「仕事が溜まる原因は複合的だろ」
「いやでも、今おまえがやってる現場って、俺が担当してるところじゃん」
ゼネコンの古見さん、我の強い人っていうかクセのある人で、でも割と東都と懇意にしてくれてる太客だから無碍にもできなくて。息継ぎもせずに言葉を重ねる吉澤の姿は、俺の前で徐々にしぼんでいくようで、今やひと回りほど小さく見える。
「あー、ダメだ俺、なにやってんだろ」
吉澤が頭を掻いた。とっくに潰れた俺のものとは違い、清潔感のある吉澤の髪型があっけなく崩れていく。
「言い訳ばっかりで格好悪い。ごめん、田所。今の忘れて。やっぱり古見さんを上手くいなせなかった俺が悪い。工期遅れてるのはあっちの落ち度だし、おまえを含めて施工部署に迷惑かけていい案件じゃなかった」
「それで?」
「……それでって?」
吉澤が素早くまばたきを繰り返す。
「言いたいことは今ので全部か?」
「ひとまず全部、だと、思う」
「わかった。それじゃあな」
「え、待って。わかった、ってどういう……」
その場を離れようとした俺の作業着の裾を、吉澤が掴んできた。つられて振り返ると、吉澤からはほんのりとたばこの匂いが漂ってくる。
「……言いたいこと言えて、すっきりしただろ?」
「違う、俺が聞きたいのはそういうことじゃなくて」
「短納期の話なら前回で完結している。おまえが頼みにきて、俺は『わかった』と昨日引き受けた。しかも一週間だったところを、五日になるよう交渉してくれた。それ以上なにを気にする必要がある?」
吉澤はきつく口を引き結んだ。そしてスラックスのポケットから缶コーヒーを取り出して「改めてちゃんとごはん奢るから」と俯きがちに押しつけてくる。
「和食だな」
「田所、ほんと好きだな、和食」
「みそ汁と白米の美味い店」
「わかった。いい定食屋探しとく」
軽やかなリズムを刻みながら、階段をおりる吉澤の足音が遠ざかっていく。軽く握りしめた缶コーヒーはまだ冷たかった。
*
吉澤と別れて戻った定時過ぎの四階のフロアは、まるで働きアリのための巣のようだった。
パートタイマーや短時間勤務の女性たちの姿は見えないものの、今日現場に出ていたはずの社員たちでさえほぼ揃っているんじゃないだろうか。オンオフをうまく切り替えられる佐々木さんの働き方が、ここに来て急に羨ましくなってくる。どうやら今日は俺も相当疲れているらしい。
「田所、戻りました」
課内全体に行き渡るように声を上げ、自分のデスクを目指す。
フロアの奥、南に面した窓際の席。夏は暑く、冬は寒い。そこが、この俺に与えられた社内での居場所だった。
ブラインドをすり抜けて差し込む夏の夕日が、まるでスポットライトのようにデスクの上に散らばっている。その光の中に缶コーヒーをそっと置き、俺は席についた。
「田所さん、お疲れさまです」
眼鏡を直しつつ、声をかけてきたのは中田 という男だった。実施部署おなじみの二年間の研修を経て、今年の春から本社配属になった、入社三年目の若手社員だ。本社のやり方に慣れるため、半年間は小泉という俺の後輩にあたる男が指導係として彼に付いている。
「お疲れさま」
「戻ってきてすぐなのにすみません。お時間ありますか?」
「ああ、どうした」
「今、小泉 さんに言われてTビルの施工チェックしてたんですけど、ちょっと相談したいことがあって」
「小泉は?」
「大森 課長とミーティング中です」
中田の言うように、大森課長と小泉の姿はフロアのどこにも見当たらなかった。
「わかった、俺でよければ。ミーティングルームの確保は?」
「いえ、まだ。空き状況チェックしてきてもいいですか」
「頼む」
「あっ、田所さん、なんか落ちましたよ」
ふと手を動かした瞬間に、物を床へ落としてしまったらしい。いち早く気づいた中田が、さっとそれを拾い上げる。
「はい、どうぞ」
中田が差し出してきたのは、たばこの箱だ。俺の愛柄。封が開いていない、新品同様のものだった。
「そうそう。今日の昼すぎ、営業課の吉澤さんが来てたんですよ。ご迷惑おかけしてすみません、って大森課長に謝りに来てたみたいで。で、田所さんにはコレだから、って僕に言付けてこれを置いていかれました」
「……そうか」
「今日暑いから缶コーヒーのほうがよかったかな、って吉澤さんは迷っていましたけどね」
箱を受け取る。中田が自分のデスクへと戻っていく。
缶コーヒーの隣にたばこを並べてやると「ごめん」と書かれた右肩上がりの文字が、箱の片隅でさみしげに佇んでいる。
律儀というか、なんというか。
その「ごめん」を指先で軽く突き、再びこちらにやってきた中田と向きあった。
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