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第3話
吉澤と初めて会ったのは中学一年のころだ。
こつこつと勉強することは嫌いじゃなかったから、親に勧められるがまま受験した中高一貫の私立校。
そこは男子校だった。根の明るいやつらは時折女子がいないことを口々にぼやいていたが、俺は特別気に留めたことはなく、六年間それなりに楽しんでいたように思う。
楽しめた一番の要因は、自ら選んだ美術部での活動だった。
美術や芸術に特別強いこだわりがあったわけじゃない。とにかく一人で黙々と作業できるなにかであればなんでもよく、部活動の中で一番向いていそうなのが美術部だったというだけだ。
その日は美術部の部室で、木版画に夢中になっていた。
入部して間もないこともあってか、ちょっとした不注意で彫刻刀の先で指を切り、ティッシュできつく止血しながら保健室に向かったと思う。
「今、保健室の先生、いないらしいよ」
保健室の片隅、無機質な白いベッドに腰かけていたのが、吉澤だった。
「なにか用事? あ、もしかしてその今ティッシュで押さえてる指?」
すごいな、こいつ。それが当時の吉澤への第一印象。
初対面の人間との上手いコミュニケーションなんてものを持ち合わせていない俺は、軽やかに言葉を弾ませる吉澤に面喰らいながらも、深く感心してしまったのを覚えている。良くも悪くも多感な時期で、また、俺たちは子どもだった。
「怪我した? 痛い? 大丈夫そう?」
ベッドから降りた途端、吉澤がずんずんと距離を詰めてくる。それから俺の指を覗きこんできた。だが沈黙を貫くことしかできない俺の様子になにを思ったのか、吉澤は申し訳なさそうに「ごめん」と言って一歩分、今度は身を引いた。
「俺も用事っていうか、ちょっとだけ横になって休ませてほしいなって思ったんだけど。お互い残念だったな」
半分ほど開け放たれた窓から、鋭いホイッスルの音が聞こえてくる。俺の知らない合唱部の曲が、風に乗って流れてくる。今度は回転椅子に腰かけて「この曲、俺、結構好きかも」などと吉澤がひとりごとのように言う。
「保健室が使えないなら、家に帰って休めばいい」
見た目には、このまま帰宅できそうな元気がありそうだった。家なら休む環境が整っているはずだ。だからつい、言ってしまった。
吉澤は目を丸くして、だけどすぐに「それ、大正論だわ」と吹き出した。
「俺もそう思う。そうなんだけど。でも、えーっと、おまえは……」
「中等部の田所。一年」
「そっか、俺も中等部一年。吉澤。んで、田所はさ、俺と違って、その怪我を放置したまま帰るわけにはさすがにいかないだろ?」
「いや、仕方ない。諦める」
「まじか。待てって。ばんそうこうとかガーゼの場所ぐらいわかるから。俺、手伝う」
なんでわかるんだ。場所がわかるぐらい通いつめているのか、もしくは保健委員なのか。そう思うだけで、聞かなかった。
俺の指にガーゼを当てる不器用そうな吉澤の手元を、治療を終えるそのときまで俺は黙って眺めた。
*
「なあなあ、田所、聞いて。俺、放送部に入ることにした」
今度こそ長く続けられそう。
一階にある美術室の窓の外から、吉澤は俺にそう言った。窓に沿って設けられた水道で、ちょうど筆を洗っていたときだった。星で作ったフィルムを貼ったように、吉澤の瞳はきらきらとしている。
保健室で出会ってからというもの、吉澤との関係は細く長く続いていた。卒業まで同じクラスになることはなかったが、中学のころは顔を合わせばそれなりに会話もするし、偶然帰るタイミングが同じになった日には一緒にコンビニへ寄ることもあった。
「ついこの間まで、高等部に上がったからには合唱部に入って、最後まで続けるとか意気込んでなかったか?」
「あー、それな。体験入部してみたけど、なんか俺歌うのはあんまり好きじゃなかったんだなって気づいたんだよ。音楽自体は好きなんだけど。だから一日でさよならしてきた」
最後まで美術部に在籍した俺とは違い、吉澤は部活を転々としていた。
最初に入っていたのは、クラスメイトに誘われたから、という理由でバスケ部だったか。それは二ヶ月ほどで退部。その後しばらくはバドミントン部やらカルタ部やら、と俺が把握しきれないほど一貫性なく渡り歩いていたように思う。
「また誰かに誘われたんだろ」
「うん、先輩に誘われた。いいっすよーって返事しといた」
校内では流れ者のような吉澤だったが、その行き着く先々でたやすく打ち解けてしまうのか、交友関係は広いようだった。
俺といえば、同級生たちの軽妙な会話のテンポについていけず、どうにも孤立しがちだった。そのせいか、吉澤のような人間と交友が途切れないこと自体に不思議な感覚を味わっていたように思う。
「じゃあ、俺が誘えば吉澤は美術部に入るのか?」
一本、また一本と筆を洗い終える。手首のスナップを効かせながら水気を切り、仮置きとして筆洗い用のバケツに立てておく。
「美術部は、ちょっと無理」
吉澤の声に、思わず手を止めた。
「無理だって。俺、美術部なんて入ったら緊張してなんにも描けなくなると思う」
「緊張する要素なんてあったか?」
だってさ、と吉澤が背伸びをして、声をひそめた。たったそれだけのことに、大人たちから隠れていけないことをしているような、妙な背徳感に襲われる。
「美術部ってすごく静かだろ」
吉澤が目線だけをちらりと俺の背後へ流す。耳をすませば、聞こえてくるのは画材を操る音がほとんどだ。吉澤のひそひそ声は続いている。
「こんな空気の中で描くのって緊張するよ。それに田所がいると、もっと緊張すると思う」
「どうして?」
「知ってるやつに見られながら描くの、普通緊張しない? 親が来る公開授業とかもそうじゃん」
でも、誘ってくれてうれしいかも。吉澤が照れくさそうに笑う。そんな様子が放課後のなめらかな空気を伝って俺に届くから、何気なく誘ったはずの俺まで、顔がわずかに熱を帯びてくる。
「田所。俺、また見にきていい?」
「前からときどき来てただろ」
「ときどき、じゃなくてもうちょっと頻繁に来たいっていうか。美術部には入れないけど、遠くから眺めるぐらいはよくない?」
「……皆の邪魔をしなければいいんじゃないか」
オッケー。吉澤のその声は、今までで一番静かで、だった。
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