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第4話
とん、と背中を軽く叩かれて振り返ると、スーツ姿の吉澤が立っていた。
「意外と早かったな」
「時間に遅れるなんて、営業マン失格ですから」
例の物件の施工が無事に終わったタイミングで「ご飯奢る」と吉澤から誘われた。社交辞令も口約束も気にしたことがないが、わざわざ守るあたり吉澤はマメなやつだと思う。
もう夏も終わりに差し掛かっていた。少しだけ夜の訪れが早くなり、だけど肌を撫でる風は湿気を存分に含んでいて秋の遠さを知る。
「なに聴いてたんだよ」
ワイヤレスイヤホンを外して片づけていると、俺よりわずかに先を歩く吉澤から声が飛んできた。
会社の最寄りから一駅先で待ち合わせだった。仕事帰りの人混みをよけながら、夜の街を二人で歩く。
「ラジオ」
「ちょっと意外」
「そうか? ラジオはよく聞いてるな。さすがに現場作業中は無理だが、家だと聞きながら作業できる」
「へえ、なんか田所は無音の中で黙々と作業するイメージだった。趣味、DIYだっけ?」
「あとジオラマづくり」
「ほんと、多趣味だよなあ」
多趣味というより、頑固なのかもしれない。子どものころから趣向が変わらないだけだ。一人で黙々と手を動かせるなら、きっとなんだっていいんだろう。
「……なあ、今ならそういう作品って、俺は見せてもらえるの」
辿りついた横断歩道の信号は赤だった。横並びで立ち止まる。
「ジオラマのことか? 興味があるなら見ればいい」
意外だったのか、俺の返答を受け、吉澤は軽く目を見開いた。昔はダメだったのに、と吉澤は沈んだ声で続ける。
「俺がいくら見たいって言っても、見せてくれなかっただろ。美術部時代の作品」
「……あのころは、まあ、恥ずかしかったんだ」
特におまえに見せるのは。そう言えば、なんでだよ、と吉澤が体全体で憤った。
答えをうやむやにしたまま、吉澤、と名前を呼ぶ。
「それでおまえのほうは。趣味、見つけられそうか」
「んーさっぱり。相変わらず情報収集のために手広く続けてる感じ」
営業スキルを上げるために必要だったから、と吉澤は以前答えたと思う。時事問題や話のネタになりやすいスポーツ観戦、それからドラマやアニメ、果ては宝くじや競馬など、薄く広く手をつけて会話の引き出しにストックしているらしい。
「別にどれも全部好きなんだけど、なんていうのかな、趣味って言い切るには興味があまりに薄いというか」
俺も田所みたいなちゃんとした趣味が欲しい。そう言って吉澤は目を合わせることなく、青を灯した横断歩道を渡り始めた。
吉澤に案内されたのは、商業ビル内の定食専門店だった。半年ほど前にオープンしたばかりで、木の柱を多用した店内はまだ真新しささえ感じさせる。わざわざ予約していたんだろう、広さはないがわずかにある個室のひとつに、俺たちは通された。
そこそこの人気店らしく個室はすでに満席、ほかの席もすでに埋まりつつあった。
「ちゃんとリサーチ済み。米とみそ汁は美味しいから。あと俺のおすすめは刺身。もしくはすき焼き定食」
ジャケットを脱ぎ、ネクタイを外しながら吉澤は言った。夏の季節になると、商談がなければポロシャツで出勤する吉澤の姿も見られるが、今日は外回りの日だったんだろう。
袖口からのぞく肌には、軽い日焼けの跡があった。
「ここ禁煙だから、それだけはごめん」
「大丈夫。慣れてる」
「はは、確かに。あとで吸える店で飲み直そうかなと思って」
俺は刺身定食、吉澤は迷った末にすき焼き定食を頼んだようだ。そしてビール二つ。ビールを待つ間、吉澤は水の入ったグラスをすぐさま空にした。
「何気に田所と食べに来るの、久しぶりな気がする」
吉澤の空いたグラスに、テーブルに備え置かれたピッチャーで水を足しながら、そうだったか、と問い返す。
普段なら水を足すことに気を回すタイプじゃない。ただ吉澤相手になると、どうにもそうはいかないらしい。少しばかりの居心地の悪さを感じて、俺は目を伏せた。
吉澤は礼を告げ、また水を少し口に含んでから話を続ける。
「ほぼ毎日一度は社内で会うから感覚鈍るけど。多分、俺の主任昇進のお祝いしてくれたときかも」
だとしたら四ヶ月前ぐらいか。
再会してからというもの、吉澤と二人で割とすぐに飲みに行く機会があった。その日以来、こんなふうに理由をつけては美味い飯を二人で食べて、じっくり飲んで、解散する日がときどきある。それこそ三、四ヶ月に一度、下手したら半年ぐらいに一回。頻度としては多くないが、俺の交友関係からすればこれでもよく会ってるほうで、久しぶりという感覚は薄い。
吉澤の口ぶりから、こいつは俺と違って、友人たちとコンスタントに交流を持っているんだろう。
「なあ、田所さん。一年早く主任になった先輩から、新米主任の俺にアドバイスとかないの?」
「さん付けはやめろ。頭が仕事モードになる」
「あーあ、怒られた」
「怒ってはない」
ふざけているうちに、ビールがやってくる。指先の皮膚が焼けそうなほど冷えたグラスを持ち、待ってましたと言わんばかりの顔をした吉澤と乾杯をした。
粘膜が触れるたびに、しゅわしゅわと滑らかな泡が弾けていく。角のない苦味が舌の上で踊り、疲労に満ちた体が喜んだ。
うま、とこぼした吉澤のあどけない声に、こちらまでつい口元が綻んでしまう。
「アドバイスはなしとして、実際主任になってからどう? いろいろ環境が変わっただろ?」
三分の一ほど減ったグラスを机に置いて、吉澤が話題を戻す。
「俺としては、田所が主任になってから、ちょっとさみしいんだよなあ」
「どうして」
「主任になる前は、施工課の一員としてありとあらゆる現場に工具持って現れてたのに、今はもう案件によっては職人任せで、田所本人は常駐しないじゃん」
現場の田所、っていう安心感がなくなったよな。吉澤はわざとらしいため息をついた。
施工課はいわゆる現場での実働部隊というやつだ。エレベータの設置や工期の管理が、俺たち施工課の主な仕事だった。
「それは悪いな」
「いや、田所が謝ることじゃないって。でもおまえが技術者として入った現場は、ゼネコン側からも仕上がりがいいって評判もいいんだよ。とことんこだわるだろ、ミリ単位のズレとか。かごの動作も」
業界に携わる人間は、エレベーターの搭乗部分のことを「かご」と呼んだ。
かごは、乗る人間が最初に触れる場所。就活中の会社説明会で聞いたこの言葉を、俺は今も強く胸に刻んで業務に取り組んでいる。
最初に触れるからこそ、手を抜けない。抜きたくない。
もう六年もこの業界で仕事をしていると、かごへのそんなこだわりは強くなる一方だ。
「かごを導くためのガイドレールなんかは、少しでもズレるとダメだ。かごが上下に動いたとき、揺れや騒音問題に発展しかねない」
「それ。その徹底したこだわりを持つからこそ、田所にはいつも現場にいてくれたらなあ、って」
営業担当の俺も、安心して前線に出られるし。吉澤がぐっとビールを煽った。
もともと現場に出向くことの多い職業ではあるが、吉澤の言うとおり、力仕事ばかりでなくなったのも事実だった。
小規模なマンション住宅や改修レベルなら、俺は現場責任者として複数箇所を管理しながらも、実際の現場は職人任せにすることが増えている。
そうでもしなければ、裏でやる業務が回らない。施工計画の作成、検査手続きや設計図のチェックなども、現場責任者となった俺の仕事だ。最初は工具を握らない日があることに不安を覚えたが、一年かけてようやく与えられた役職にも慣れてきたところだった。
「まあでも、もうすぐすれば吉澤の期待には応えられる」
「あ、そっか。あのプロジェクトか」
お待たせしました、と会話の途中で店員がやってきた。
トレーに乗せられた刺身定食とすき焼き定食を、それぞれの前に置くと、店員は忙しそうに個室を後にする。
ご飯は冷めないうちに、と吉澤がそう促すので、仕事の話はやめ、俺たちは胸の前で手を合わせた。
吉澤のおすすめには、ハズレがないといつも思う。
刺身は生臭さがなく、小鉢に盛られた冷奴や煮物なども味つけに品のよさがある。粒の立った輝く米も、海鮮系の出汁がよく効いたみそ汁も、きめ細やかで丁寧な仕上がりだ。
見事に、俺の思う美味さに直結している。こいつのリサーチ力には脱帽だ。
しばらく無言で食べ進めていたが、無遠慮な目線に気づき、湯気の向こう側を見た。吉澤と目が合う。
これは、なにか期待されている。直感的にそう思うのは、普段よく喋る吉澤が黙って俺を見つめてくるからだ。
「美味いよ」
言葉を投げた途端、吉澤は「だろ?」と身を乗り出し、誇らしげに笑う。胸の奥で、小さな波が起こった。
「結構気合い入れて探したんだよ」
「もともと通ってた店じゃないのか」
「違う。田所が好きそうな店をネットで探して、狙い絞って何度か一人で下見に来ただけ。今回の据え付けはめちゃくちゃ世話になっちゃったから、店探すのも気合い入れてみた」
「……ありがとう」
そう返す声が、少しだけ喉の奥に引っかかった。
「お礼を言うのは俺のほう。でも田所のときぐらいだよ、ここまで気合い入るのは」
ちょっとトイレ行ってくる。そう言うと、吉澤はさっと立ち上がり、個室から出ていく。吉澤とすれ違った客の女性があいつの後ろ姿を目で追いかけたのを、俺は見逃さなかった。
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