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第5話

 店で一時間ほど滞在した後、飲み直そうとビルを出た。  ビルからほど近くの、手ごろな居酒屋へ場所を移す。金曜日なこともあってか、店内はスーツ姿の客たちで賑わっていて、俺たちも溶けこむようにテーブル席で向かい合う。  最初は軽く仕事の愚痴をこぼしていた吉澤も、酒が進むうちに黙りがちになった。  酒に特別強いほうじゃない。ビール三杯も飲めば俺は根を上げてしまうが、吉澤はそんな俺よりさらに弱く、アルコールが完全に回ると眠気に負けるタイプらしい。  多分、吉澤は今、眠気と戦っている。  重たげなまぶたをゆっくりと上下させながら、吉澤がたばこをふかした。ぼんやりと店内を眺めるその整った横顔は、ほんのりと赤みを帯びている。 「なあ、吉澤」 「んー?」 「大学のとき、モテただろ?」 「なにいきなり、なんで?」  たばこの先端を灰皿の中で押しつぶす、その手の動きが急にぎこちなくなる。落ち着けよ、とアドバイスしながら、俺は残りの酒を煽った。 「さっきの店」 「ビルの中の?」 「ああ。さっきの店で、おまえとすれ違った女の人が振り返ってた」  社内でも「かっこいい男性陣の一人」として話題に上がる場面は幾度か遭遇したことがある。  男子校だった俺たちに異性は無縁の存在だったからわからなかっただけで、吉澤が人の目を惹く造りをしていることに間違いはないだろう。 「モテたというか、付き合ったことぐらいはある、けど」 「それだけか?」 「それだけって、なんだよ」 「そういうエピソードがあるなら、俺に聞かせてくれてもいいんじゃないか?」  吉澤が不意に俺を見た。その顔はさっきまでと打って変わって、夜空にぽかんと浮かぶ月のようにさみしげだ。  どことなく、恋愛沙汰の話題を互いに避けているのはわかっていたというのに。  今日に限って安易に選んでしまった自分に、ひどく嫌気が差した。 「っていうか俺の話はいいって。田所こそどうなの。彼女とか、いた?」 「……まあ、いたな」 「へえ。いたんだ」  へえ。吐息混じりにもう一度呟くと、吉澤は新たなたばこに火をつける。ふかしたばかりの煙が吐き出されるのを待って、俺は罪を償うように口を開いた。 「ただそのときは半年ぐらいで終わった」 「なんで、とか理由聞いてもいいやつ?」 「自然と連絡取らなくなった」 「自然消滅じゃん」 「そして、気づいたらその子は別のやつと付き合ってたな」 「……泣いた? ってか今、泣いてない?」 「泣いてない」  吉澤が朗らかに笑う。昔の映写機のように表情が瞬く間に移ろいでいく。 「さあ、帰るぞ」  眠気も吹っ飛んだだろ。そう言うと、吉澤は目線を寂しげにテーブルへ落とす。しかし次の瞬間には「もうすっかり」と俺を見つめて、殊更笑みを深くした。  *   「奢ってくれてありがと」 「一軒目は奢ってもらったんだし、次は出して当然だろ」 「ははっ、本当にいいやつだなあ、田所って」  どうせ明日は土曜で、互いに休日だ。会計を済ませて店を出たあと、終電にさえ間に合えばいいかと、駅までの道をゆっくりと歩く。アルコールで炙った血液が巡っているせいか、それともこの蒸した空気のせいか、体のあらゆるところが暑くて仕方がない。ちょっと歩いただけで、喉が渇いた。  吉澤も同じだったらしい。自販機の白い灯火を見つけた途端、示し合わせたように二人で頷く。飛んで火に入るなんとやら。吉澤のその言葉に、思わず喉を鳴らした。 「田所はなに買う」 「水でいい」 「コーヒーじゃないんだ?」 「さすがに酔い冷ましたい」 「じゃあ、俺も」  ミネラルウォーターのボタンを押す吉澤の脇から、スマホを握った手をさっと伸ばした。電子マネーで決済を済ませると、物言いたげに吉澤が俺を見たのがわかった。続けてもう一本。俺のかわりに、吉澤がペットボトルを取り出してくれる。 「……なんかおまえがいいやつだから、つい甘えちゃってごめん」  手の中にある二本のペットボトルを見つめながら、吉澤がぽつりと呟いた。水を奢ったぐらいで大げさなやつだ。立ち尽くす吉澤の背を軽く叩き、歩くことを促した。 「あー、土日が終わればまた仕事かあ」  たどり着いた地下鉄のプラットフォームで電車を待ちながら、吉澤がぐっと上に向かって腕を伸ばす。その顔は芯を保っていて、酔いは歩いているうちにほぼ抜けたらしかった。 「もう月曜のこと考えてるのか」 「週末に一人で家にいると余計に。残してきた仕事のことが頭の中でチラつくんだよ。そろそろ九月だし、繁忙期だし? そんなことない?」 「ないな。気にしたって仕事は進められないんだから、割り切るしかない」 「ふーん」 「……あんまり背負いすぎるなよ」  吉澤が前を見据えたまま、わかってる、と軽く頷いた。電車がごうごうと唸り声をあげて、構内に滑り込んでくる。  それから俺が先に電車を降りるわずかな時間、俺たちは無言だった。  空席ばかりの車内。ほんの数分だからと立ったままの俺にわざわざ連れ添い、肩を扉に押しつけながら吉澤はスマホをいじっている。  その光景を横目で見ながら、俺だって、と思う。  もう吉澤は忘れているかもしれない。俺がまだ主任見習いとして、現場の管理を徐々に任されるようになってきたころのことだ。  図面の細部にこだわりすぎて、工期に遅れが出たことがある。  しかも最悪なのは、工期の遅れによって俺たちの後に控えていた他業者とのバッティングが起こったことだ。  作業中断を余儀なくされたその業者は当然「東都のせいでこっちは着手できなかった」と現場の元締めであるゼネコン側に当然詰め寄った。  どうしてくれる。責任は誰がとる。当時の現場監督からは圧をかけられ、今後の方針を迫られた。  突沸する寸前の液面のように、表面上だけはやたらと奇妙な静けさを現場は保ち、俺はそこへ毎日通うことすら苦痛を覚えるようになっていたと思う。  職人としてのプライドと未熟な管理能力の狭間でもがきながら、現場責任者の任を解いてほしい、と申し出ようとしたタイミングで、俺の代わりに頭を下げに行った人たちがいる。  当時、現場の営業担当をしていた吉澤と、代表責任者としながらも俺の補助に回っていた佐々木さんだった。  工期、伸ばしてもらえるって!  乱れのないスーツ姿で俺の前に現れた吉澤は、子どもみたいに息を弾ませてそう告げた。そのあとすぐ珍しいスーツ姿でやってきた佐々木さんに「現場に入るならヘルメット着用しろ!」ときつく叱られ、皆が一斉に笑い出したあの光景を、俺は今でも忘れられない。  作業員の増員はすでに手配済みです。田所の工程管理を営業も共有し、なにかあればすぐに報告、対策検討まで迅速に行える体制を整えます、って。  そうやって頭下げたら許してもらえたよ。だから田所は仕事に集中すればいい、と。  吉澤は何食わぬ顔で俺に報告し、その件はそれっきりおしまいになった。  しかし、これには少しだけ続きがある。  知ってるか、田所。あのときのあいつ、格好よかったんだぞ。  そう佐々木さんが切り出したのは、工程も終盤に差しかかったころの話だったと思う。  ぽつぽつと水面に波紋を起こすように、佐々木さんは話を紡いでいく。  こちらの誠意ある対応を望むゼネコン様を前にして、啖呵切ったんだ。田所には最後まで現場に張りついてもらう、あいつは東都の最高峰のエレベーターを必ず体現する、すごい男ですから、って。私の言葉の本質は、エレベーターの仕上がりを見れば必ずわかる、って畳みかけたときには俺は胸が熱くなって震えたね。  おまえら、いいコンビになれるよ。  吉澤や田所みたいな熱い若手がいれば、未来の東都は安泰かもしれねえなあ。  試運転により、ようやく動き出すエレベーターの前で「やり遂げたなあ」と佐々木さんは俺の隣で目を細めた。  ねぎらいの言葉のつもりで、あいつさえ俺に伝えなかったことを、こっそり教えてくれたんだろう。俺はうつむいたまま使い古したタオルで顔を拭き取り、再び前を向いた。  前を、向けたんだ。  いいやつ、なんて言葉で片づけられるものじゃない。俺はたしかに、あの日、救われた。  なあ、吉澤。  頼む、ってひとこと言えばいい。助けて、と気兼ねなく言えばそれでいい。  俺でカバーできることなら、いくらでもカバーしてやる。カバーぐらいなら、今の俺にもできるから。  だから必要以上に、背負うなよ。  ふと吉澤が顔を上げた。自然と目が合い、吉澤が気恥ずかしそうに笑って、再びスマホに集中した。  昔と変わらない笑顔のはずなのに、どうにも胸の中が波打って騒々しい。施工課の役目として留めておけない、未練がましい言葉があふれ出しそうになるのを、アルコール混じりの吐息で懸命にかき消した。  目の前を通り過ぎる地下トンネルの中へ、やがて静かに吐息が吸い込まれていく。  車体が大きく揺れる。カーブに差し掛かる。  波はまだ、治まらない。

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