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エピローグ – side吉澤
定時を過ぎて鳴る社用のスマホ片手に「残業」の二文字が殊更くっきりと脳内に浮かんだ。
無機質な天井を一度仰ぐ。両隣のデスクが空席なのをいいことに、深呼吸をしてから通話ボタンを押した。
「はい。TSE営業課、吉澤です」
相手は、長年TSEを懇意にしてくれている地域密着型のゼネコン、新藤建設の沖浦さんだった。
新藤建設と聞いて思い当たる、俺が担当の案件はひとつしかない。そしてその案件を現場で仕切っているのは、施工課の佐々木さんだ。
スマホで話を聞きながら、パソコンでチャットを打つ。案の定、佐々木さんからの反応はいくら待っても返ってこない。
なるほど、と腑に落ちる。とっくに現場から帰っただろう佐々木さんと連絡がとれないから、こうして営業の俺に急ぎ通話してきたってわけだ。
「……それで、今すぐ私どものほうから代替案を出せと?」
高圧的な態度を崩すことなく、沖浦さんは話を続けた。
「だって仕方ないでしょう。ディベロッパーの光栄建宅さんが今日急に来て、やっぱりエレベーターのパネルの色が気に入らないって言うんだから」
「しかし、こちらは事前に弊社の色やデザインの専門担当も同席したうえで、お色味についてはいくつものバリエーションをご提案しました。ご納得の上で契約を交わしていただいたと認識しておりますが、私の思い違いでしたでしょうか」
努めて冷静に語りかけると、スマホの向こうからそれはそれは見事なため息が返ってきた。
「わかったわかった。吉澤さんの言いたいことはよーくわかってるから。で、いくら出せばTSEさんはやってくれるの?」
こっちは急いでるんだよね。沖浦さんの横柄さに、むくむくと苛立ちが湧いた。
そういう問題じゃない。
突然のイレギュラーが巻き起こす、心身への軋轢を俺は知っている。だからこそ慎重に、隙のない説明を心がけているというのにこの瞬間、俺の努力は呆気なく泡と消えた。
それに、金さえ払えばいいんだろう、と沖浦さんは高を括っているが、その正当な金さえ値切ろうとするのが新藤建設のいつものやり方じゃないか。どうせ今回も最後の最後まで小競り合いをする未来が見える。
頭を抱えながら、スケジュールの管理アプリを開く。
工期はもう二ヶ月を切っていた。現状、対応可能な代替案を作成しつつも、パネルの仕様を変更するには設計課へ至急図案を差し戻す必要がある。
当然、貼り替えを行う現場にだって大きな皺寄せがいくだろう。このご時世、職人の成り手だって減少傾向だ。最初は余波であってもいつか大きな波に変わって、やがてTSEの仕事を引き受けてくれなくなるかもしれない。
それでもゼネコン側は自分たちの都合で押し通るだけで、俺たちの都合なんて知らんぷりだ。
「沖浦さん。申し訳ありませんが金額の面については、今すぐには申し上げられません」
ぐっと感情を飲みこんで、建設的に話を進める。
「コストはできる限り押さえる方向で、やはり取り急ぎ代替案を提出させていただけませんか」
「それはいつまでに?」
そう来ると思った。
規模は大きくなくても、新藤建設からは毎年コンスタントに受注が舞い込んでくる。ここで機嫌を損ねれば売上高の減少は免れないだろう。
やっぱりここは、俺が踏ん張るしかないんだよなあ。
「……明日までに、必ず」
代替案とカラーサンプルをデータ送付する旨を伝えて、通話を切る。うなだれる俺の気持ちを見透かしたように、スマートウォッチに通知が入った。
――帰りは何時になる?
田所だった。
できるなら今すぐ帰りたい。
切実な思いを押し殺し、まだ残業中の社員たちがいる手前、素知らぬ顔で「今日は遅くなる」とだけ返信した。
*
人影も少なくなったホームから電車にふらふらと乗りこみ、家に着いたころには夜の十一時をとっくに回っていた。寝静まっていることを覚悟しながら玄関をまたぐと、リビングからは煌々とした光が漏れていた。
田所と同棲を始めて半年。
おなじ夢を見ながらいざ社会人として働き始めると、見事におなじ職場で再会を果たした田所と俺は、晴れて恋人同士になった。
生活をともにするようになって気づいたことだけれど、田所はどうも規則正しい生活を好んでいる。
特別なことがなければ日付が変わるまでにさっさと寝てしまうし、朝は家を出る二時間前には起きる。それを苦もなく、当然のように田所は繰り返していた。
「田所?」
はやる気持ちに後押されながらリビングに入る。しかしどこにも田所の姿がない。返事すら、ない。
電気つけっぱなしで寝ちゃったとか?
ぱんぱんに膨れ上がった期待が、針を刺したように急速に萎む。肩を落としながら歩みを進めると、ソファーの上で横たわる、見慣れた人影を発見した。
「……寝てる」
珍しいこともあるものだと思う。どれだけ疲れていても風呂に入り、着替えて、ベッドの上で眠るというのに。
物音を立てないよう、そっと床に座りこむ。全身の力が抜けていく。健やかな寝息を鼓膜で拾うことで、内側の強張りが蕩け、ただ一人のあるべき姿へと戻っていく。
田所の寝顔を見つめた。
手入れされた眉、涼しげな目元に、わずかに荒れた薄い唇。
どれだけじっくり眺めても、新鮮な気持ちが薄れない。
こうして至近距離で捉える機会はあっても、案外細部まで覚えてないのは、いつだって俺が田所に抱かれている最中だからなんだろう。
顔が全てじゃない。でもやっぱり、田所の顔だって好きだと思う。もちろん、惚れた理由はそれだけじゃないけれど。
自然と顔が溶ける。さっきまであったはずの疲労感はなりを潜め、気づけば俺はソファーに頭を預けていた。
来月切るって言ってたっけ、と先日の田所とのやり取りを思い出しながら、目にかかる髪の毛をやさしく払ったところで指先に吐息が触れた。
「いったい、いつになったら俺を起こしてくれるんだ」
目の前の口元が、いたずらっぽい弧を描いている。
「……起こした?」
「吉澤が玄関のドアを開けた音でな」
「そんな前から?」
早く言えよ。文句をつければ田所は目を開いて、ただただ静かに笑うばかりだ。
「遅かったな」
田所の手に頭を撫でられながら「うん」と答えたそれは、想像以上に甘ったるい声になった。
「めちゃくちゃ疲れた」
「ご飯は? 吉澤の分、冷蔵庫に残してあるぞ」
「それもいいけど、さ」
わがまま、言ってもいい?
仕方ないとでも言いたげに、田所が鼻から抜けるように笑う。
「……いいよ。叶えられることなら」
田所は、どんなときでも必ず一度は受け止めてくれる。その田所の誠実さが、大人になればなるほど身に染みる。しかもこれが俺だけの特権なのだから、調子に乗るなというほうが到底無理な話だ。
「俺、今日はたくさん頑張ったから、いっしょにお風呂に入ろ?」
まだ、田所が入ってないなら、だけど。
一旦言葉で防御壁を張りながらも、本当は少しだけ勝算が見えていた。営業畑に長くいると、どうしたって望み薄の戦いは避けがちになる。
ただ、田所がまだ風呂に入ってないことは、髪や肌の匂いでわかるというものだった。
「わかった」
田所が立ち上がる。じっと見つめ続ける俺に苦笑して、田所は背をかがめると俺の唇に触れるだけのキスを残す。
「とことん甘やかしてやるから、いい子で待ってろ」
甘い疼きがたちまち全身に広がって、替えの利かない幸福感で満たされていく。
準備ができた、と呼ばれて脱衣所に向かうと、さっそく田所にキスをされた。そのキスですら、仕事で擦り切れた俺を労るようにやさしい触れ方だった。
田所の「とことん」は徹底的だ。服を脱ぐのも、髪を洗うのも、体を洗うのも。丁寧に、妥協されることなく、体の隅々まで田所の手によって施されていく。
「なあ、なんでゴム持ってこなかったんだよ……っ」
責めるつもりで放ったそれも、丸裸になった風呂場の中では淫らに反響して、どうにも物欲しげな響きになった。
自分の奔放さに、恥じる気持ちはある。だけどそれ以上の痴態を、もうとっくに田所の前で晒している。今日だけの話では収まらないほどに。
「風呂場にわざわざ持ってこないだろ。我慢しろ」
「な、んだよ、もう……」
丁寧に泡立てられたボディーソープを散々いやらしい手つきで全身に塗り広げられたら、誰だって意味ありげに硬く、形作ってしまうだろう。しかも肝心の場所には一切触れてもらえないのだから、余計にこの先に待ち受けるものを期待して唆られるというものだ。
この際、場所なんてどこでもいい。今すぐ田所に中をかき乱してほしくてたまらないのに、まだまだお預けらしい。
「吉澤」
「……ん、なに……?」
田所の毛先から落ちた雫の冷たさに、返事がひと呼吸分だけ遅れた。
「本当は嫌なことがあったんじゃないのか」
「……なんで、そう思うの」
「残業した日に限って、積極的に風呂に誘ってくるから」
「はは、そうだったっけ?」
笑って濁せば、田所はそれ以上追求をしなかった。
昔からそういうところがある。俺が言いたくなるまで、そして心の準備が整うまで、田所はいつも待っていてくれる。かといって俺に全てを委ねるわけでもなく、自分という核を明確に持ち続ける強さもあった。
あらゆる顔色を伺っては、常に酸欠状態でこの世界の中で泳ぎ続けてきた俺には到底真似できない。そんな田所の生き方に、俺は堕ちるように惹かれることしかできなかった。
「結構苦しそうだな」
他人事でしかない感想に、当たり前だろ、と悪態をつく。
じゅわ、と時折滲む感触がある。焦らされた上の先走りなんてコントロールできるはずもない。胸の突起を露骨に避けながら、何度も何度も無骨な指がぬめる肌の上を滑り落ちていく。
「ぁ、あっ……」
体の奥が疼きっぱなしだった。咥えてもいないのに、さっきからひくひくと収縮を繰り返しているのがわかる。みっともなく腰を田所の腹に擦り寄せてみたが、誘いに乗ってくるどころか、田所はやんわりと俺の額に唇を落としていなすだけだ。
「ベッドの上でも甘やかしてほしいなら我慢な」
おまえがねだったんだろ?
俺に問いかけながら、耳たぶに甘く噛みつかれた。
そうだよ。こうなりたいって、期待してたよ。だけどいつだって田所の施しに最後まで耐えきれず、根を上げてしまうことをもうおまえは知ってるくせに。
触れられたいのに触れられたくなくて、ばか、とだけ吐き捨てる。
今度は腰まわりをじっくりと愛撫され、たちまち踏ん張りが効かなくなった。背中を浴室の壁に預けたものの、何度も滑り落ちそうになる。そのたびに田所の鍛えられた脚が俺を支え直してくれる。
「しがみついてろ」
低く囁かれ、縋るように田所の首に腕をきつく回した。田所の匂いが肺の奥にまで深く染み込む。
くらくらする。さっきから俺の下腹に当たる硬い感触に同調して胸を高鳴らせ、残りの理性を湯気にあっけなく溶かしていく。
「なあ、触ってよ……はやく……」
「触るだけだぞ」
「ん、あ……それ……っ」
宣言どおり、田所はいつまでも屹立したそこに触るだけだった。果てそうになれば、寸前できゅっと根元を締めるように動きを止められる。
今にも暴発しそうな渇望だけが、体に取り残されていく。
やがて体も心も、全てが跡形もなくぐずぐずにとろけたスープみたいになって、うなされたように何度もこの先に待つ快楽を欲しがった。
お願い、田所、お願いだから。おまえの好きにしてくれていいから。なあ。
田所の瞳の奥にどろどろに煮詰めたような欲の片鱗を見ながら、ようやくベッドにたどり着いたときには、俺は完全に。
ローションの冷たさと田所の持つ熱の落差に翻弄されながら息を吐き、最奥へと迎え入れる。
酸素を根こそぎ奪うようなキスをして、獣みたいに腰を揺らして、俺たちを隔てる皮膚一枚すら溶かしてしまうような体液を纏いながら、ゴムを替えてまでしつこく田所と繋がり続けた。
視界が滲む。限界を耐えて凌ごうとするその真剣な田所の表情すら滲むのが嫌で、田所を抱きしめる。
どうでもよくなる。田所以外のことなんか、どうだって。
好きにしていい、と言ったのに田所がどこまでもやさしく抱くせいで、幸福という真綿に締めつけられながら、今日という一日を死にものぐるいで生きた自分を、最後はそっと手放すしかなかった。
*
翌朝。朝食を終え、スーツに袖を通したところで、持ち帰っていた社用のスマホが鳴り響いた。
まさかの出社前だ。鬱屈した気持ちを抱きながらも、表示された「新藤建設 沖浦さん」の文字をどうにも無視することができない。こんな時間から事務作業をこなしているのか、この人は。
ネクタイを首に引っかけたまま、気持ちだけは切り替えてスマホを耳に押し当てた。
ひと通り目は通した。施主の最終確認待ちだが、おそらくこの提案書が採用される可能性が高いから見積書を急いで作成してくれ、と一方的に言い募られる。
通話を切り、スマホをシャツの胸ポケットに突っこむ。同時に仕事モードへと切り替わった脳内で今日のタスクを組んでいく。
まずは差し戻した図面がどうなっているか、朝イチに設計課に確認を入れる。あとはどこまで新藤建設相手に見積額を抑えるのか、北村課長と相談が必要だ。俺としてはこっちの落ち度はゼロなんだから、強気に出たいところではあるけれど。
頭を回転させながら、田所の部屋のドアを軽快にノックする。すぐに返事はあった。
「朝から忙しそうだな」
室内を覗くと、着替えを終えた田所が背筋を正して、悠然と立っている。田所の立ち姿は、いつだってまっすぐで、美しい。
「ごめん、今日ちょっと早めに家を出ようと思う」
「それは構わない。ただ……大丈夫か?」
「なにが?」
田所はあいまいに笑うだけで、それ以上なにも言わなかった。
しかし、目の前の瞳がどうにも不安げに揺れているように思えて仕方がない。
視界の端では田所のベッドが映りこんだ。風呂の後、見境もなくもつれ込んだあの場所で、存分に致したことを思い出す。
呼吸が浅くなる。スーツで補強したはずの内側が、砂の城のように脆く崩れる音がする。
唐突に、だけど強烈に引力が働き、今すぐ田所とともにあのベッドへ舞い戻ってしまいたくなった。
ああ、そうだったのか。自分で思う以上に、気持ちがずっと追いこまれているらしい。
田所は俺に羽を休める方法を教えてくれる。甘やかして、呼吸を楽にしてくれる。だけど再び俺を羽ばたかせるのも、田所という存在であることは間違いない。
田所の隣に立つのなら、誇らしい自分でありたいと思う。昔から。そしてこれからも、ずっと。
「大丈夫だよ。おまえがいてくれるから」
なんて言ったら重すぎ? 茶化して肩をすくめる。田所はそんな俺をバカにすることもなく、抱きしめるように背中をとんと叩いてきた。
「背負いすぎるなよ」
「……うん、わかってる」
それから田所は、俺もおまえといっしょに家を出るから、と告げた。
玄関の鍵を閉める。二人そろって、目に沁みるような青空の下を歩く。
淡い希望を抱きながら田所の指に触れると、最寄り駅までのわずかな道のりを惜しむように強く握り返される。
操られるがままに翻弄されては、キスしたいなあ、とつい漏らしてしまい、帰ったらな、とやんわりあやされる始末だ。
それでもこんな自分が、案外好きだったりする。
「もう絶対今日は、田所より早く帰る」
「それは楽しみだな」
それからいつもより少しだけ早く布団に入り、二人で眠ろうと思う。田所は昨日と変わらない眠りを俺に与えて、その度に俺はここに帰る理由を思い出す。
今日もまた、俺はこの世界で戦っていく。
湿気を織り交ぜた向かい風が、俺たちの歩幅を押し返す。それでも階段をあがるように、一歩ずつ前へと進んでいく。
いつしか俺の中では、新たな砂の城が出来上がっていた。
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