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第38話
ベッドの住人であろうとする吉澤を起こすのは、骨の折れる作業だと学ぶところから、翌日は始まった。
とっくに身支度を整えた俺とは違って、吉澤は未だ布団に体を埋めたままだ。しばらく様子を見ていたが一向に出てくる気配がなく、声だけはかけておくか、と俺は今こうしてベッドに腰かけている。
放っておけば何度だって眠りに落ちていきそうな気配のするまぶたが、俺が話しかけるときだけ持ち上がる。
「昨夜は無理をさせてしまって悪かった」
反省の意を唱えれば「そうだけど、そうじゃない」と煮え切らない呟きが、盛り上がった布団の山から聞こえてきた。
「……もともと朝に強くないんだよ」
「まあ、薄々そうじゃないかとは思っていたが」
俺の家に泊まりに来てたころから、俺より早く起きたことなんてなかっただろ。そう答えると、さすが田所、と吉澤が笑う。俺のこと、本当によく見てるよなあ。
「あのころは田所に迷惑かけちゃいけない、って気を張ってたから。あれでも頑張って起きてたほう」
「でもおまえが遅刻したところは見たことがない」
「それはそうだろ。社会人にもなって遅刻してたら信用問題に関わるし」
深く同意しながら、吉澤の髪を撫でる。結局ろくに乾かすことなく眠ったのに、多少の乱れがあるだけだ。カーテンの隙間から差し込む青みを帯びた光の中で、俺に撫でられながら吉澤がうっとりと目を細める。
「わかった。今日は気が済むまで寝ていろ。寝るのに飽きたら起きてくればいい」
「それだと田所がさみしいくせに」
「……ああ、さみしいよ」
言った途端、吉澤はどこかすねたような、それでいて今にも泣きそうな複雑な表情をした。
あやすように額に唇を落とす。ひとときだけ閉じられたまぶたが、朝の空気をなぞりながら再び持ち上がった。
吉澤がゆったりと上体を起こす。
「やっぱり、起きる」
「気が変わったのか」
「だって、田所にさみしい思いしてほしくないじゃん」
見事な切り替えの早さだった。思わず苦笑する俺の頬へ、おはよう、と吉澤は流れるようにキスをした。
遅めの朝食をとった後、吉澤はてきぱきと荷解きを始めた。引っ越してきた初日に大まかな片づけは終えていたが、まだ手付かずの段ボールが吉澤にあてがった部屋の中にしっかりと山積みになっている。
そこまで根を詰めなくてもいい。時間はある。そう伝えてみたが、今日中に終わらせたい、と俺の申し出を頑なに受け付けなかった。
「田所って、家で過ごすの好き?」
束ねた段ボールを紐で縛りながら、吉澤が訊ねてくる。
「そうだな。外に出るよりは落ち着ける」
「うん。俺もそう。だったら早く片づけて、家でちゃんとくつろげるようにしたいって思うんだけど。そうしたら一日中、おまえとくっついていられる」
「ずっとか? なにをするにしても?」
「そうだよ、ずっと」
しっかり構えよ? と挑発的に微笑まれ、抱きしめたい衝動を抑えるのに必死になった。
日が傾き、夜の切れ端を空に滲ませるころ。ひと息いれようとキッチンに立ち、コーヒーの準備をしながらもやけに部屋の中が静かなことに気がついた。
先ほどまで吉澤の自室のほうから響いていた物音が、忽然と消え失せている。
手の中から砂がこぼれていくような胸のざわめきに背中を押され、吉澤、と廊下から名前を呼んだ。
返事はない。急ぎ、吉澤の部屋を覗いた。
あ、と思わず声が漏れる。立ち尽くした様子の吉澤が、声につられて俺を見た。
「……田所、これって」
クローゼットから引っ張り出しただろう大きな板を、吉澤が指差す。
心臓が、戦慄いた。
体が瞬時に過熱して、なのに末端だけがいつまでも氷に触れたように冷たいままだった。
どうして忘れられたんだろう。置き場所に困り、吉澤が引っ越してくるまでの間だけ、と吉澤の部屋のクローゼットに隠したことを今更ながらに思い出す。
押し黙る俺に、吉澤の真摯な視線が突き刺さる。退路を塞ぐように、いつまでも俺に向けられる。
ああ、そうか。もうおまえは逃げないと決めたのか。
「……原版だ。木版画の」
観念して声を絞り出した。
今すぐ片づけるから、と罪悪感から伸ばした手を、吉澤の声が遮る。
「もしかして、これ……あのときの……」
ハッとして伏せた顔をあげる。吉澤が「そうか」と閃いたように呟いた。
「原版だから反転してるんだ、これ……」
瞳に鮮烈な光を灯す瞬間を、間近で見た。
「俺、この絵、見たことある」
独り言のようなつぶやきが、俺の心臓を握りしめる。気道が狭まり、視界が大きく歪んだ気がした。
「高校の最後の文化祭で、これ、展示してたよな?」
嘘だ。しずくのように零れ落ちた音を、吉澤がそっと拾い上げる。
「嘘じゃない。本当に見たんだ。田所に言っても堂々と見せてくれないだろうから、最後ぐらい、って田所が美術室にいないタイミングを狙ってさ。見たとき、本当に驚いた。俺の知ってる景色だったから」
東京タワーから見下ろした、あのときの景色とそっくりだった。
吉澤が笑う。わだかまりが雪解けを迎えて、溶けていく。
捨てられなかった。ずっと。
いくらでも手放す機会はあった。摺りあがりはとっくに捨てたのに、原版だけはどうしても道連れにすることしかできなかった。
未だ終わりの見えない人生の中、星の瞬きよりも一瞬で、長い旅にも似たかけがえのない時間を、吉澤とあのタワーの上でわかちあった。その輝きに惹かれて、子どもだった俺は懸命に板に彫りこんだ。
おまえがいつか忘れていくことが許せなかった。確かに心を共有した、泣きたくなるほどに愛おしい記憶を手放したくなかった。
忘れることがないよう深く刻みつけてしまえたらいいのに、と浅はかな思いを彫刻刀に託し続けたんだ。
「俺、感謝してるんだよ。この絵があったから、思い出せた。自分が本当にやりたいことは、いつか世界一のエレベーターを作ることなんだ、って」
感謝なんて言葉を投げられるほど、誇れる作品なんかじゃないことは自分が一番わかっている。それでも俺は誰よりもおまえに見てほしくて、それが今、二人だけの部屋で静かに叶えられていく。
家族連れの多いマンションでありながら、この瞬間だけはあまりに静寂に満ちていた。回り続ける洗濯機の音が、壁を隔てた向こうから聞こえてくる。
いつしか痛ましいほどに握りしめていた手を、吉澤のそれがそっと包んだ。
「なあ、聞いていい?」
「……ああ」
「田所の夢も、俺とおなじだった?」
見つめ合い、ゆっくりとうなづく。吉澤はこみ上げるものを我慢するように、きつく唇を引き結んだ。それから深く呼吸をして、なんだか泣きそうだ、と眉を下げて笑う。
「結局、手先はずっと不器用だから、営業なんてやってるけどさ」
「……なんて、とか言うなよ」
自分で自分を否定する理由なんて、どこにもない。俺たちの仕事はいつだってチームで動く。誰一人欠けても、TSEのエレベーターは最高の状態で生み出せない。
信頼のおける皆がいる。そして、誰よりも勇ましく先陣を切る吉澤がいる。だからこそ俺は恐れを覚えながらも、何度だって現場に立つことができるんだ。
やがて吉澤は、飾ろうよ、と言った。リビングの一番目立つところに飾ろう。
さすがに原版を飾るのは気が引けて、もう一度摺りあげるからそれまで待て、と頼み込む。いつか絶対摺るから、と。
そのときが来たら、二人でまた、東京タワーにいこう。
なんとか吉澤の部屋が生活を営める状態になったのは、夜の八時を回ったころだった。さすがにこの時間から料理を作る気力はなく、換気扇の下でたばこを吸いつつも、さっきから吉澤はデリバリー選びに忙しい。
「なあ、田所。なにがいい?」
「なんでも」
「だから、なんでも、は答えになってないから。そう言われるのが一番困る」
わざと困らせてるんだ。そう言ったら吉澤は本気で怒るだろうか。本気の怒りを見てみたい気もするが、こいつのことだ、一生うまく怒れないかもしれない。
換気扇に煙を吸わせる。目線を落とす。スマホに夢中になりすぎて、吉澤のたばこの灰が今にも先端から崩れ落ちそうになっている。
おろそかになっているのは、それだけじゃない。
吉澤のたばこを取り上げて灰皿に置いた後、スマホを遮るように口づけた。軽いままで留めようとしたけれど、それだけで満たされることはなくて、舌先を苦い口内に押しつけていく。互いにしつこく纏わせるうち、観念したように、スマホを手から離す硬い音を聞いた。
「田所は、お腹空いてないの?」
「空いてる」
「だったら邪魔すんなって」
唇を押し当てたまま、戯れるように囁き合う。食欲より勝る情欲に白旗をあげながら、どうしようか、どうしよう、と戸惑いつつもキスを深めていく。
「インスタントラーメンでも作るか」
吉澤の首筋に鼻先を寄せる。
くすぐったさに身をよじりながら吉澤が、今? と訊ねてきた。
「……いろいろと終わったら」
その答えに全てを悟って、吉澤は柔らかな笑い声をあげた。それから俺の手からたばこを奪い、名残惜しそうに口を寄せる。
吉澤の吐き出した白煙が、高く、高くのぼっていく。
煙が無色に還るころ、吉澤と再び濡れた視線を交わした。
無言のまま。しかし心の内側にやさしく触れられたような高鳴りを覚えながら、俺たちはまぶたを閉じて余裕のないキスをする。
まぶたの裏側では、あの空の青さが見えた気がした。
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