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 第1話 邪魔な薔薇は、踏みつぶせ

 僕の心に、黒い薔薇が咲いた。  学園を追われた日、夕陽に焼かれた金の髪は、まるで罪人の烙印だった。  薔薇が咲くには、土と、水と、絶望が要るという。  ――ならば、今の僕はきっと、咲く準備ができていた。 「霧峰ルイ。君の行為は、貴族の品位を貶めた。よって本日をもって、退学処分とする」  淡々と読み上げる処分書の声。拍手喝采でも起きそうな空気の中で、唯一沈黙を守っていたのが――  彼だった。  真神ナオト。僕の初恋で、幼なじみで、今は僕を地に堕とした男。 「……ナオト、おまえ……」  声は震えていた。心の奥底から湧き出る言葉は、形をなさずに崩れ落ちる。足元がぐらつく。世界が歪む。  彼は立ち上がり、白い制服の裾を払って言った。 「下等な薔薇は、咲く場所を間違えたんだよ。ルイ」  その瞬間、意識の奥にかすかに残っていた「希望」のようなものが砕けた。  ――それは、幼い頃の記憶。  夏の日差しの下、僕たちは庭の片隅で薔薇を育てていた。 「ルイ、こっち、こっち!」  ナオトは笑っていた。泥のついた手を振りながら、僕を呼ぶ。 「薔薇って、すごいよな。トゲがあるのに、花はこんなに綺麗なんだから」  その言葉を聞いたとき、幼い僕はただ無邪気に頷いた。けれど今になって思う。あれは「傷つくことを恐れるな」と言っていたのだろうか?それとも「弱い者は、美しさより痛みを知る」……そういう意味だったのだろうか?  僕の指先に、ナオトがそっと触れる。 「ちゃんと育てれば、絶対に咲くさ」 ――その言葉を信じていた。ずっと。  なのに今、彼の声は、あまりにも冷たい。  目の前のナオトは、過去の記憶とは別人のように遠い。  僕の喉から、微かな言葉がこぼれる。 「……おまえ、忘れたのか……」  しかし、ナオトは何も言わず、ただ背を向ける。  沈む夕陽が、その姿を赤く染めていた。  その瞬間、目の前が暗くなった。  息が詰まった。まるで肺に釘を打たれたような感覚。喉の奥に熱いものが込み上げてくるが、吐き出せない。言葉にできない。  ナオトの瞳は、冷たい。かつて僕に向けられた、柔らかな春風のような眼差しはもうない。  幼い頃、僕たちは庭で一緒に薔薇を育てた。貴族の子供らしく、華やかなものに囲まれていたはずなのに、僕はそれよりもナオトの笑顔が好きだった。土を触る彼の手。泥に汚れながらも、どこか誇らしげに赤い花を眺める横顔。  どこか遠い記憶。今、目の前にいる彼は、僕を見下ろしていた。薔薇を踏みにじるような声で。  何が間違えたんだろう。僕はただ、彼の隣にいたかった。 ◆  ◆  ◆  僕が霧峰家に戻ると、すでに門は閉じられていた。  空は深い灰色に染まっていた。六月の雨が、静かに降り続けている。屋敷の石造りの壁は濡れて暗くなり、門の鉄格子には冷たい滴が伝っていた。足元の石畳も、水を含んで鈍い輝きを放っている。  門の前に立つ。雨がまつげを濡らし、視界がぼやける。  門の中央に掲げられた家紋――かつては誇りだったそれが、今はただ冷たく僕を拒んでいるように見えた。  門番は僕を見つめ、一瞬だけ憐れむような表情を見せた。だが、それも一瞬のことで、彼はすぐに屋敷の奥へと走った。  しばらくして、母が現れた。  雨の庭に現れた母の姿は、真珠の肌と黒曜石の瞳を持つ幻のようだった。  母の瞳は、感情を滲ませたように揺れていた。雨の雫と区別がつかないほど、静かな涙が頬を伝っているように見えた。 「ルイ……あなた、どうして……」  その声は、かすかに震えていた。決して感情を乱すことのなかった母が、言葉の続きを探している。 「どうしてあんな子と……」  母は、そこで言葉を詰まらせた。雨音だけが響く。  僕は息を止めて待った。返す言葉を持っていなかった。  母は視線を逸らし、唇を噛みしめる。 「私は……あなたが戻ってくるのを、願っていたわ。でも、もう……」  その声が途切れた。 「もう……?」  問いかけた瞬間、母はぎゅっと拳を握りしめ、僕に背を向けた。 「……ルイ、この家の名前を、これ以上汚さないで。お願い。出ていきなさい」  その言葉は、冷たい決断のようだった。でも、震えていたのを僕は見逃さなかった。  僕の肩に、母の手がそっと触れる。 「雨が冷たいわ。風邪をひかないように……」  そう言って、母はマントをかけた。けれど、その手は一瞬だけ、離れることを惜しんだように僕の肩に残った。  僕は言葉を探した。でも、出てきたのはただ、かすれた声だった。 「……母さん……僕は……」  母は首を振った。もうそれ以上、言葉は交わせなかった。  それが、霧峰家で交わされた最後の会話だった。  門が閉じられた。  雨が降り続ける。冷たい雨だった。  荷物も金も、何もない。貴族の証だった指輪さえも、門を出る前に取り上げられた。  もう帰る場所はない……  六月の冷たい雨、傘もなく、歩き出した石畳の道に、僕の足音だけが響く。  街は灯りに包まれていた。なのに、僕の周囲だけが仄暗かった。  誰もいない路地裏にたどり着いたとき、ようやく膝が崩れた。  頬を伝うのは、雨だけじゃなかった。  そして、僕の胸にひとつの言葉が蘇る――  『下等な薔薇は、咲く場所を間違えたんだよ』  その言葉が、深く、深く、胸に突き刺さっていた。 ◆  ◆  ◆  雨の夜。路地裏の隅、段ボールひとつの屋根の下で、僕はじっと寒さに耐えていた。  掌をすり合わせても、もう指先は感覚がない。息を吐けば白く、シャツの襟はすでに濡れ、胸元まで冷えきっていた。  誰も僕を見ない。誰も僕を気に留めない。この都市の片隅で、僕は誰でもないただの "存在しない者" になった。  華やかな夜の街に、ネオンが灯る。だがその光は、僕の居場所には届かない。  かつての学友の名前をひとり、またひとりと思い出す。僕を指さして笑った顔。見て見ぬふりをした目。ナオトの、冷たい声。 「咲く場所を間違えた……か……」  呟いた声は、雨音にかき消された。  僕は両膝を抱えた。全身が震える。けれど、それは寒さのせいだけじゃない。  誰かにすがりたい。でも、誰もいない。  名前を呼びたい。でも、その名を呼べば、もっと壊れてしまう気がした。  夜は長い。  そして、誰も来ない。  孤独は、音もなく、確実に心を蝕んでいった。 ◆  ◆  ◆  ――そのときだった。  足音がした。  水たまりを踏みつける音。近づく影。  僕は顔を上げた。  街灯の逆光の中、傘を差した男が、静かにこちらを見下ろしていた。 「……君、貴族の子だろ」  その声は、澄んでいて低く、どこか懐かしさを孕んでいた。  男は無言でマントを脱ぐと、僕の肩に掛けた。  マントは雨に濡れていたのに、なぜか微かに白薔薇の香りに似た、微かに甘い匂いがした。――どこかで嗅いだことのある、懐かしい香り。 「震えてる。寒かったろう」 「……あなた、誰……?」  声がかすれた。喉が痛い。けれど、聞かずにはいられなかった。 「名乗るほどの人間じゃないさ。ただの……裏通りの亡霊さ」  その言葉遣いには、どこか芝居がかった優雅さがあった。路地裏の浮浪者が使うには、あまりに場違いで。  彼の笑みは、どこか痛みを知っている者のそれだった。  ――それが、僕と彼の最初の出会いだった。

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