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 第2話 僕の家は、今日、消えた

 門が、開かなかった。  学園を追われた翌朝、金の唐草が這うように装飾された屋敷の正門に、僕はひとり立ち尽くしていた。昨日までは執事がすぐに開けてくれた、僕の家だった場所だ。  手の中の鍵が、冷たかった。 「……鍵が、合わない?」  ポケットに入れていた小さな銀の鍵。それを差し込んでも、扉はまったく軋まない。まるで“もう僕の鍵じゃない”とでも言いたげに。  数回、カチャリと音がして──それきり、沈黙。  目の前にあるのに、扉が開かない。ただ、それだけのことが、こんなにも胸を苦しめるなんて。  肌寒い風が、頬を撫でる。季節の変わり目の匂いが、鼻をかすめた。白い息を吐くにはまだ早い季節なのに、身体がやけに冷えるのは、気温のせいじゃなかった。  誰かが通り過ぎていく。車の音、子どもの笑い声、門扉の外に広がる世界は、何も知らずに回り続けている。  僕だけが、昨日に置いていかれたみたいだった。  そうしているうちに、屋敷の脇門からスーツ姿の男が現れた。革鞄、黒縁眼鏡、金のバッジ。口元だけが笑っている。 「ご令息──いえ、失礼。もう“ルイ様”ではありませんね」  男は口元だけが笑っていた。何の感情も持たない、氷のような瞳が僕を見下ろす。  手の中の鍵が、ただの金属ではなく、何かを断ち切る“道具”のように思えた。  男は鞄を開き、淡々とした口調で“現実”を読み上げた。 「お父上は、昨夜、急性の心疾患でお亡くなりに。すでに密葬は済ませております。そして、遺言により貴族爵位は剥奪、資産はすべて差し押さえ。本日をもって、あなたの戸籍は“除籍”されます」  聞こえたはずの言葉が、意味をなさなかった。  違う言語みたいだった。ただただ、耳をなでる音の波。  いや──聞きたくなかっただけなのかもしれない。 「……僕は、昨日までこの家の人間だったのに」 「昨日まで、ですね」  その男は一枚の鍵を差し出した。 「これは新しい鍵です。蔵の裏の、古い離れが空いています。今日中にそちらへ移動を」 「……捨てるなら、せめて静かに捨ててよ」 「ご安心を。これでも、最後の慈悲のつもりですので」  男は一礼して立ち去った。門は、閉ざされたままだった。  それでも僕は、すぐに背を向けることができなかった。  体が動かなかった。指先だけが微かに震えていた。  門の向こうでは、誰かがカーテンを閉じる音がした気がする。  物音に過敏になって、背筋がびくりと震えた。  心のどこかで、「誰かが来てくれる」ことを、まだ期待していたのだろう。  けれど──誰も来なかった。  どのくらい、そこに立っていたんだろう。  鳩が空を渡るのを二度、見送った。雲の形がゆっくりと変わり、近くの並木道に落ちる影が少しずつ伸びていく。  時間は、確かに流れていた。なのに、僕はこの屋敷の前で、ひとりだけ凍っていた。  蔵の裏にある離れは、“住まい”と呼ぶにはあまりに寂れていた。  雨漏りのする天井、カビ臭い畳、割れた障子。あるのは誰かが使い古したちゃぶ台と、埃の積もった布団。  そこに、父の肖像画がぽつんと置かれていた。 「……どうして、ここに」  裏返すと、マジックで書かれた太い字が目に入った。 『ルイの失敗は、家名の恥である。すべては、あの子のせいだ』  筆跡は、父のものだった。 (──お父さん)  思い出す。小さい頃、父が僕に言った。 「男の子の味覚は“苦味”から育つんだよ」  カカオ90%のチョコレートをケーキにして、僕の誕生日にくれた。  苦くて泣きそうになったのに、最後まで食べたら、父がくしゃっと笑ってくれた。 「ほらな、食べられたろ。お前は、きっと強くなる」  ──その笑顔を、信じていた。  信じたまま、壊れた。  あの手は、僕を守るためではなかったのか?  それなのに、あの文字はなんだ。  “僕のせいだ”って?  あの笑顔も、あの誕生日も、全部嘘だったのか。  怒りとも、悲しみとも違う、名のない感情が胸を焼いた。  喉の奥がつかえて、吐き出せないまま、涙だけがこぼれそうになった。  でも、あの手はもう僕を撫でてくれない。  むしろその手が、今の僕を“この家から切り捨てた”んだ。  日が暮れて、街はネオンに沈み始めていた。  財布も通帳も、僕のものだったはずのすべてが、“他人の物”として処理された。    コンビニで、店員に見下ろされながら唯一買えたのは、割引シールの貼られた塩むすび一個だけだった。  駅前の公園で、自販機の光を背に、僕はベンチに座っていた。  誰も僕に気づかない。けれど、それが妙に心地よくさえあった。 「……おにぎりって、ケーキに見えないかな」  無理矢理笑って、袋から取り出す。てっぺんに、小さなロウソクを立てた。百均の拾い物。  ライターはない。傍の喫煙所にいたおじさんが、黙って火を貸してくれた。  ゆらりと火が灯る。あのときと同じ、でも、味のしない火。 「……おめでとう、自分。君は今日、自由になったんだってさ」  そのときだった。  背後に、誰かの気配を感じた。  空気がわずかに変わる。風のないはずの木が、ひとつだけ揺れた気がした。  目を向けた瞬間には、もう誰もいなかった。けれど── 「いた」  そう確信していた。  視線。影。沈黙のような気配。  それは、遠く街路樹の根元に立つ、一人の“男”の輪郭。  影の中で、ほんの一瞬だけ光が跳ねた。  あれは、仮面……?  ありえない。けど、なぜか確信していた。  あれは偶然じゃない。“あいつ”は、ずっとそこにいたんだ。  まるで、今日の僕がすべてを失うことを、知っていたかのように。  顔は見えなかった。けれど、何かが僕に告げていた。 「ここから、始まるよ」  僕には聞こえた。  声にならないはずの“気配”が、確かに、そう囁いた。  ──この夜を境に、すべてが動き出す。

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