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第3話 屈辱の夜、薔薇は凍える
夜の街は、まるで僕の存在を拒んでいた。
人が多いのに、誰の目にも映っていない。
誰もが、僕のことを「見て見ぬふり」するのが、こんなに刺さるなんて。
通り過ぎるスーツ姿の男が、僕のそばをすり抜けるとき、ほんのわずかに鼻をひくつかせた。
振り返りもせず、まるで僕が“空気より下等なもの”みたいに扱われるのが、滑稽で、情けなくて、痛かった。
香水の香り、紙袋のこすれる音、誰かが笑っている声。
そのすべてが、今の僕には遠い世界のものだった。
街灯の下、影だけが長く伸びている。
僕の影は、誰にも踏まれない。
でも、それは優しさなんかじゃなかった。ただの“無関心”だった。
気づかれたくないのに、誰かに気づいてほしかった。
その矛盾が、胸の奥で渦を巻いていた。
駅ビルの電光掲示板が、「終電」の文字を表示している。
赤く点滅する光が、どこか警告のようで、目を逸らした。
路肩に止まっていたタクシーの運転手と目が合った。
でも、次の瞬間には視線を切られていた。まるで「乗る気がないなら見るな」と言われたようで、惨めな気持ちになる。
ベンチを見つけた。でも、座れなかった。
濡れていたのは、雨のせいなのか、誰かが吐いたものなのか、見分けがつかない。
手を伸ばせば、ほんの少し楽になれるかもしれないのに、それすら拒まれている気がして。
疲れていた。足が棒のようだった。
何も食べていない。喉も乾いていた。けれど、誰かに『助けて』と声を上げ、見知らぬ人の憐憫を乞うほど、僕のプライドは落ちていなかった。それだけが、僕をこの地面に押しとどめていた。
それだけが、僕をこの地面に押しとどめていた。
スマホはない。財布もない。名前も、家も、もう、ない。
このまま消えれば、たぶん、誰も気づかない。
それでも──死ぬつもりは、なかった。
ただ、眠りたかった。
どこか、誰にも見られない場所で、丸くなって、眠りたかった。
◆ ◆ ◆
ようやく見つけた路地裏は、誰もいなかった。
濡れた段ボールと、黒いゴミ袋が無造作に積まれている。
腐った果物のにおい。誰かが吐いたまま放置された酒の匂い。
それらすべてが混ざった空気が、鼻を刺した。
でも、不思議と、ここが一番“安全”に思えた。
壁にもたれた。膝を抱えた。
冷たいコンクリートの感触が、服越しにじわりと伝わってくる。
まるで地面ごと、自分の存在を押し潰してくるようだった。
胃が、きゅう、と鳴った。
空腹の痛みは、飢餓というより“確認”だった。
――ああ、僕はまだ、生きているんだな。
さっき見かけたファミレスの看板を、今さらになって思い出す。
厨房から漏れてきたカレーの香り。ジュウと鳴る鉄板の音。
あれだけで、唾液が出そうになった自分が、嫌だった。
物乞いみたいな自分を、見たくなかった。
それでも、空腹は正直だった。
唇を噛む。痛みで気を紛らわせたくて。
特に、右手の甲が赤く腫れている。……昨日、ナオトに突き飛ばされたとき、石畳にぶつけたのだろう。
乾いていない傷が、じんじんと熱を持って主張している。
僕の“過去”が、今も皮膚の下にこびりついて離れないような気がした。
ああ……ここが、僕の終着点かもしれない。
名もない、夜の片隅。
ゴミ袋の隙間に、しおれた花が落ちていた。
枯れて、踏み潰されて、色も香りも失った小さな薔薇。
それが、自分の姿に見えて、笑ってしまった。
そんな僕に、誰かが声をかけてくるはずもない。
目を閉じた。いや、閉じようとした。
そのときだった。
──誰かの気配。
かすかに、足音。
でも、革靴の硬質な音ではない。
もっと静かで、濡れた路面をすべるような、異質なリズム。
反射的に身をすくめる。喉が音を立てた。
息を殺して、肩を抱え込むようにして、気配が去るのを待った。
──違う。
止まった。
足音は、僕の目の前で、ぴたりと止まった。
「……薔薇が、こんなところで咲くとはね」
その声は、低く、よく通るのに、不思議と耳に優しかった。
顔を上げると、そこには──
ひとりの男が、街灯の逆光に包まれて立っていた。
銀の仮面。黒いロングコート。
手袋をした手が、ポケットからゆるやかに抜けていく。
美しかった。
けれど、それは人間の“整った顔”ではなく、異物としての美しさだった。
仮面の下の表情は読めない。
でも、なぜか“微笑んでいる”とわかった。
「君、何をしてるの? こんな夜に。こんな場所で」
意味のない質問。
答える義務もなかった。
でも、口が勝手に反応した。
「……関係ないでしょ」
声が、かすれていた。
それを聞いて、男はわずかに目を細め──くすりと笑った。
まるで、僕の強がりを見透かしているかのように。
「関係、大ありだよ。君は“商品”になりうるからね」
「……は?」
意味が、わからなかった。
でも、ぞっとした。
それは言葉のせいじゃない。
この男が、“それを本気で言っている”と、直感したからだった。
「僕は、そういう商売をしてる。
君を、売る。代わりに……君の“誇り”を、買い取ってあげようか?」
ぞわり、と背筋に鳥肌が立った。
この男は危険だ。
逃げようとした。
でも、足に力が入らなかった。
疲れ果てた身体は、もはや命令に従う意思を持たない。
それを見て、男はゆっくりとしゃがみ込み、僕と同じ目線になった。
銀の仮面が、ほんの数センチ先にある。
目の奥を見透かすような、冷たい視線。
「君が望むなら、何にだってなれるよ。
人形でも、ペットでも、料理人でも……恋人でも」
囁くように、言葉が滑り込んできた。
耳の奥が、熱を持つ。
「その代わり──君の“誇り”を、僕に預けてくれる?」
背筋に、ぞくりとしたものが走った。
それは恐怖ではなく……惹かれるような、危うさだった。
気づけば、彼の手が、僕の頬に触れていた。
手袋越しのくせに、ぬくもりだけは妙に確かで。
そのまま、指が顎を持ち上げる。
キスの距離。
息が、混ざる。
唇が──触れるかと思った、その瞬間。
彼は、すっと身を引いた。
「やめておこう。
君の“初めて”は、もう少し値打ちがついてからにする」
「……なに、それ」
口に出した声が、震えていた。
「契約だよ。君と僕の、“最初の取引”」
そう言って、彼はゆっくりと立ち上がった。
まるで、この夜の“シナリオ”を最初から知っていたかのように。
差し出された手を、僕は見つめた。
その手を取れば、きっともう、戻れない。
でも──
この手しか、僕には残されていなかった。
そのぬくもりが、意外なほど優しくて、僕は抗うことができなかった。
「立って、ルイ」
どうして、僕の名前を──?
そう思ったときには、僕の身体は、もうその手を取っていた。
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