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第4話 仮面の男と、取引のキス
僕の手は、まだ彼の手に包まれたままだった。
冷たい手袋越しの感触が、妙に落ち着かなくて、でも振り払う勇気もなかった。
何も言わず、仮面の男──アキトはゆっくりと歩き出した。
僕はただ、それについていくしかなかった。
街灯の明かりが、ひとつ、またひとつ、背中に流れていく。
誰もいない通り。誰にも見られない夜。
なのに、僕はまるで舞台に立たされているような気がしていた。
逃げようと思えば、今しかなかった。
けれど、逃げる先がどこにもなかった。
ナオトの家は、もう僕のものじゃない。
あの家の門は、僕の存在を“抹消”した。
誰かの名前にすがることも、誰かの善意を信じることも、できない。
だから僕は、この仮面の男の手を──契約書のペンのように、握っていた。
「寒くない?」
突然、彼が口を開いた。
「……平気」
反射的に返した自分の声が、情けなくて、唇を噛んだ。
優しくされたかったわけじゃない。
でも、優しさを否定するほどの強さも、残っていなかった。
彼の歩く速度は一定だった。僕のペースに合わせているようにも見えた。
けれど、それが優しさなのか、単なる計算なのかはわからない。
路地裏を抜け、少しずつ街の光が減っていく。
やがて足が止まった。
目の前に現れたのは、くすんだ看板のかかった古い建物。
「RESTAURANT」とだけ書かれた、その場所は、すでに営業を終えたように静まり返っていた。
「ここが、君の“居場所”になる」
仮面の下から漏れたその言葉が、胸に刺さった。
居場所?
それが、牢屋でも、檻でも、商品棚でも──
今の僕には、ありがたすぎる響きだった。
鍵の音が、やけに大きく響いく。
重たい木製の扉がゆっくりと開くと、
冷たい空気が、内側からゆらりと流れ出てきた。
外と大して気温は変わらないはずなのに、
その空気は“責任”の匂いがした。
「入って」
仮面の男──アキトが、扉を片手で支えて言う。
僕は、一歩だけ足を進めた。
でも、もう一歩が出ない。
玄関の奥に広がっているのは、無人のレストラン。
壁は古く、床は少し軋んでいる。
でも、そこには確かに、“整えようとした痕跡”があった。
食器は磨かれていて、椅子はすべて同じ角度で揃えられている。
窓のカーテンには、わずかなレースがかかっていた。
「見られたくないのに、見てほしい」ような、そんな部屋。
「……ここって、何?」
「店だよ。前は営業してたけど、今は止まってる。
君と一緒に、また始めようと思ってるんだ」
「……僕と?」
彼は頷いた。
「料理はできる?」
「少しだけ。……でも、それとこれと、何の関係があるの」
「関係は、君が作るものだ。
ここで何をするかは、君が選べばいい。
でも、君が選ばない限り、誰かに選ばれるしかない」
その言葉が、胸に引っかかった。
“選ぶか、選ばれるか”
僕は、ずっと「選ばれる側」でいた。
親に、家に、社会に。
ナオトにも。
「……僕が、何かを選べる立場にいると思ってるの?」
「思ってるよ。
君はもう“薔薇”じゃない。根がある。
だから、咲く場所も、枯れるタイミングも、君が決めていい」
その言葉が、
冷たく張りつめていた心の奥を──ほんの少しだけ溶かした。
「君、鏡を見た?」
アキトがそう言って、壁際の姿見を指差した。
無言で近づいて、覗き込む。
そこに映ったのは、貴族の末裔でもなければ、薔薇のような美でもない。
泥が跳ねたズボン。頬に張りついた髪。
目の下の影。服のほつれ。
──“誰でもない”顔。
「……最低だな」
僕は思わずつぶやいていた。
でも、仮面の男は首を横に振った。
「違うよ。とても綺麗だ」
「からかわないで」
「本気さ。君がこんな状態でも“美しい”ってことは──
君自身に価値があるってことだ。……それを証明するには、どうすればいいと思う?」
「知らない。僕には、わからないよ」
「簡単さ。キスだよ」
「……は?」
視線が合う。
仮面の奥から、息がふっと触れた気がした。
「キスひとつで、君の価値が測れるなんて……皮肉だよね」
「それが、僕の“値段”? ……ふざけてる」
口では否定した。
でも、身体がほんの一瞬、震えたのは、怒りではなかった。
怖いのは、屈辱ではない。
──キス一つで、なにかを取り戻せそうな気がした自分だった。
アキトはゆっくりと近づいた。
「これは、取引の一部だ。
でも、形に残る契約書がない以上、僕と君の間に信頼が必要になる」
彼の指が、僕の顎を持ち上げた。
その動作が、あまりにも静かで、
あまりにも優しくて、
拒むための言葉が、どこにも見つからなかった。
距離が、なくなっていく。
目を閉じようとした、その直前。
彼の唇は──僕に、触れなかった。
「……もう少し、値打ちがついてからにしようか」
「君の初めては、まだ“高く売れる”と思うからね」
アキトはそう言って、またあの癖のある笑みを仮面の奥に滲ませた。
唇に触れなかったその距離が、余計に心をかき乱した。
拒絶ではない。
でも、歓迎でもない。
その“中途半端な肯定”が、いちばん怖い。
「……じゃあ、何から始めるの?」
自分でも、なぜそんな言葉が出たのか、わからなかった。
でも、口に出してしまった瞬間に、
僕はこの契約を、受け入れていた。
「まずは、掃除と……料理の練習かな」
彼は何事もなかったように、厨房の奥へと歩き出す。
背中を見送っているうちに、僕は、ぽつりと呟いていた。
「……僕、売られるんだよね?」
「うん。堂々とね」
「笑える。……いや、笑えないけど」
「でも君は、自分で“それを選んだ”。それは、強いということだ」
その言葉が、思っていた以上に優しかった。
“強さ”なんて言葉、久しくかけられていなかったから──
胸の奥が、少しだけ熱くなった。
厨房には、古びたフライパンと、焦げ跡の残るまな板。
でも、どこか丁寧に使われていた痕跡があった。
「ここの料理は、誰が?」
「昔の店主がいた。でも、もういない。
だから、ここから先は、君が作るんだ。
料理も、居場所も、君自身も」
“君自身も”。
それは、どこにも行き場がなかったこの身体にとって、
唯一の再出発の宣言のように聞こえた。
「……わかった。取引成立、ってことでいい?」
僕がそう言うと、アキトはわずかに首を傾けて、
「じゃあ、君には“仮の名札”を。
“ルイ”、この名前の価値を、君が取り戻してみせて」
その瞬間、厨房の小さなランプが、かちりと灯った。
温かな、ほんの少しだけ心を照らす光。
僕はその灯りの下で、ようやく、“凍えない場所”を手に入れた気がした。
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