6 / 44

 第5話 鎖のような主従

 目が覚めたとき、天井がやけに近く感じた。  ……違う。天井じゃない。低い棚の下だった。  どうやら、僕は厨房の隅に敷かれた薄いマットレスの上で寝ていたらしい。  眠った記憶は曖昧だった。  昨日のことが夢だったかのように感じられるのは、現実があまりにも不自然だったせいだ。  それでも、身体の芯には確かな疲労が残っていて──  ここが、現実の延長であることを知らせていた。  立ち上がると、裸足の足裏にタイルの冷たさが染み込んだ。  小さな厨房。窓の外はまだ灰色で、街は静かだった。  時計を見ると、朝の五時半を過ぎていた。  こんな時間に目覚める習慣なんてなかったはずなのに、  なぜか身体が勝手に動いた。  戸棚を開ける。炊飯器。冷蔵庫。玉ねぎと卵。  調味料の位置も、すぐに目に入った。  ……まるで、ここで何年も働いてきたみたいだ。  鍋に水を張って火をつける。  炊飯器のスイッチを入れ、卵を割る。  少しだけだしを加えて、フライパンを温めて── 「……動きがいいね。まるで、飼い慣らされた猫みたいだ」  声がして、思わず振り向いた。  厨房の入口に、仮面の男──アキトが立っていた。  黒い長衣のまま、マグカップを片手にして。  「いつから……」 「君が寝返りを打ったあたりから」  冗談とも本気ともつかない調子で言って、彼は椅子に腰を下ろした。 「何か作ってるの?」 「……朝ごはん。僕が食べたくて作ってるだけ」 「いいね。じゃあ、僕にも作って」  その言葉に、胸の奥がかすかに引っかかった。  “命令”のようで、“お願い”のようで。  どちらとも取れる曖昧な口調が、逆に僕を無力にする。  でも、断る理由もなかった。 「……味噌汁と卵焼き。あと、ご飯だけ」 「それで充分。主従の朝にしては、上出来だ」  まただ。  この男は、わざと“主従”という言葉を使う。  でも、それを否定するだけの力も、今の僕にはなかった。  味噌汁の湯気が、静かな空間に広がっていく。  卵焼きの焼ける音。  炊きたての米の香り。  目の前の光景だけ切り取れば、  それはどこにでもある、温かな朝だった。  でも、仮面の男が座っているだけで、すべてがどこか“歪んで”見える。  彼は箸を器用に使って、卵焼きを一切れ口に運ぶと、  少しだけ眉を上げた。 「……悪くない。ほんの少し甘すぎるけど」 「家庭用のだしがそれしかなかったから」 「言い訳しない。いい傾向だ」  その会話が終わると、少しの沈黙が流れた。  気まずくはなかった。  ただ、言葉がなくても“支配”の空気はちゃんと保たれている気がして──  それが少し、苦しかった。  ふと、彼が左手をかばうように動かしたのが見えた。 「……ケガ、してるの?」 「昨日、少しガラスでね。大したことはないよ」 「見せて」 「君、医者だったっけ?」 「違う。でも……料理人だから、手は気になる」  そう言ったら、彼はおもしろそうに目を細めて、手袋を外した。  白い包帯が、左手首から手の甲まで巻かれていた。  僕はそれを受け取って、そっとほどく。  包帯の下には、小さな切り傷がいくつか走っていた。 「やっぱり縫うほどじゃないけど、ちゃんと消毒しないと」 「じゃあ、処置をお願い。……君の手で」  指先に、消毒液とガーゼ。  血のにおいが、わずかに鼻をくすぐる。  僕は黙って、丁寧にガーゼをあてた。  そして──  白い包帯を、再び彼の手に巻いていく。  巻くたびに思った。  これは“治療”ではなく、“象徴”だ。  包帯は、まるでリボンだった。  見た目は柔らかく、軽やかで、それでも確実に誰かを繋ぎとめる鎖。  最後に結び目を作るとき、僕はわざと、少しだけきつく縛った。 「これでよし。ほどけないように、ちゃんと結んだ」  僕の声に、彼は仮面の奥で微笑んだように見えた。 「ありがとう。“僕の所有物”らしい、いい手つきだった」  その一言が、胸にひっかかった。  ──“所有物”。  きつく結んだのは、あの包帯だけじゃなかった。 「所有物、って……冗談でしょ」  僕は包帯の端を整えながら、できるだけ冷静を装ってそう返した。  でも、喉が乾いていた。  冗談のように聞こえなかったから。 「冗談だったら、わざわざ言わないよ」  アキトは、マグカップを傾ける。  そこから立ち上るのは、コーヒーじゃない。ハーブの香り。  ミントとレモングラスの清涼感が混ざった、変わった匂い。 「君は、今ここで寝て、食べて、働いている。  生活の基盤を、僕に握られている」  その声は、事実を並べているだけなのに、  なぜか命令より強く響いた。 「そうだとしても、“所有”なんて言葉で括られたくない」 「じゃあ、何て言えばいい?」 「……同居人、とか、雇用主とか……」 「弱いね。  “君は僕のもの”って言葉ほど、確かな関係はないと思うけど」 「支配じゃないか、それ」 「うん、支配だよ。  でも君は、それを拒んでない」  言葉が詰まった。  否定したかった。でも──できなかった。 「……ただ、逃げ場がないだけ」 「じゃあ、逃げ場があったら、僕から離れる?」  そう問われて、僕は答えに窮した。  本当なら、即答すべきだった。  でも、すぐに言葉が出てこなかったのは、なぜだろう。 「……わからない」 「それでいい。人間は、わからないものに支配されるから」  彼は立ち上がり、机の端に腰をかけて、僕を見下ろす。 「君は、僕のものだよ、ルイ。  形はどうでもいい。中身がそれを認めていれば、十分だ」  そう言った彼の仮面に、  ほんの一瞬、自分の顔が映った気がした。  それは、僕の知らない顔だった。  僕は、包帯の結び目をじっと見つめていた。  この白い布の中に、何が込められているのか。  所有の印か、救いの契約か。  まだ答えは出なかった。  でも、少なくとも一つだけはわかっていた。  この手を取ったのは、自分だということ。 「……じゃあさ」  ふいに口を開いた僕の声は、思ったより静かだった。 「その“鎖”があるなら……僕も、逆に使わせてもらうよ」 「ほう?」 「僕が君に縛られるなら、君も僕の中に結びつけられるってこと」  アキトは仮面の奥で笑った気がした。 「その考え、嫌いじゃない」 「僕は“所有物”じゃない。ただの“契約者”だ」 「でも、“鎖”は切れない」 「望むところだよ。引きずってでも連れてく」  そう言った自分の声に、どこか体温が戻ってきた気がした。  寒くて凍えていた体が、少しだけ息を吹き返す。  ――これは服従なんかじゃない。  これは、僕なりの戦いだ。

ともだちにシェアしよう!