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第5話 鎖のような主従
目が覚めたとき、天井がやけに近く感じた。
……違う。天井じゃない。低い棚の下だった。
どうやら、僕は厨房の隅に敷かれた薄いマットレスの上で寝ていたらしい。
眠った記憶は曖昧だった。
昨日のことが夢だったかのように感じられるのは、現実があまりにも不自然だったせいだ。
それでも、身体の芯には確かな疲労が残っていて──
ここが、現実の延長であることを知らせていた。
立ち上がると、裸足の足裏にタイルの冷たさが染み込んだ。
小さな厨房。窓の外はまだ灰色で、街は静かだった。
時計を見ると、朝の五時半を過ぎていた。
こんな時間に目覚める習慣なんてなかったはずなのに、
なぜか身体が勝手に動いた。
戸棚を開ける。炊飯器。冷蔵庫。玉ねぎと卵。
調味料の位置も、すぐに目に入った。
……まるで、ここで何年も働いてきたみたいだ。
鍋に水を張って火をつける。
炊飯器のスイッチを入れ、卵を割る。
少しだけだしを加えて、フライパンを温めて──
「……動きがいいね。まるで、飼い慣らされた猫みたいだ」
声がして、思わず振り向いた。
厨房の入口に、仮面の男──アキトが立っていた。
黒い長衣のまま、マグカップを片手にして。
「いつから……」
「君が寝返りを打ったあたりから」
冗談とも本気ともつかない調子で言って、彼は椅子に腰を下ろした。
「何か作ってるの?」
「……朝ごはん。僕が食べたくて作ってるだけ」
「いいね。じゃあ、僕にも作って」
その言葉に、胸の奥がかすかに引っかかった。
“命令”のようで、“お願い”のようで。
どちらとも取れる曖昧な口調が、逆に僕を無力にする。
でも、断る理由もなかった。
「……味噌汁と卵焼き。あと、ご飯だけ」
「それで充分。主従の朝にしては、上出来だ」
まただ。
この男は、わざと“主従”という言葉を使う。
でも、それを否定するだけの力も、今の僕にはなかった。
味噌汁の湯気が、静かな空間に広がっていく。
卵焼きの焼ける音。
炊きたての米の香り。
目の前の光景だけ切り取れば、
それはどこにでもある、温かな朝だった。
でも、仮面の男が座っているだけで、すべてがどこか“歪んで”見える。
彼は箸を器用に使って、卵焼きを一切れ口に運ぶと、
少しだけ眉を上げた。
「……悪くない。ほんの少し甘すぎるけど」
「家庭用のだしがそれしかなかったから」
「言い訳しない。いい傾向だ」
その会話が終わると、少しの沈黙が流れた。
気まずくはなかった。
ただ、言葉がなくても“支配”の空気はちゃんと保たれている気がして──
それが少し、苦しかった。
ふと、彼が左手をかばうように動かしたのが見えた。
「……ケガ、してるの?」
「昨日、少しガラスでね。大したことはないよ」
「見せて」
「君、医者だったっけ?」
「違う。でも……料理人だから、手は気になる」
そう言ったら、彼はおもしろそうに目を細めて、手袋を外した。
白い包帯が、左手首から手の甲まで巻かれていた。
僕はそれを受け取って、そっとほどく。
包帯の下には、小さな切り傷がいくつか走っていた。
「やっぱり縫うほどじゃないけど、ちゃんと消毒しないと」
「じゃあ、処置をお願い。……君の手で」
指先に、消毒液とガーゼ。
血のにおいが、わずかに鼻をくすぐる。
僕は黙って、丁寧にガーゼをあてた。
そして──
白い包帯を、再び彼の手に巻いていく。
巻くたびに思った。
これは“治療”ではなく、“象徴”だ。
包帯は、まるでリボンだった。
見た目は柔らかく、軽やかで、それでも確実に誰かを繋ぎとめる鎖。
最後に結び目を作るとき、僕はわざと、少しだけきつく縛った。
「これでよし。ほどけないように、ちゃんと結んだ」
僕の声に、彼は仮面の奥で微笑んだように見えた。
「ありがとう。“僕の所有物”らしい、いい手つきだった」
その一言が、胸にひっかかった。
──“所有物”。
きつく結んだのは、あの包帯だけじゃなかった。
「所有物、って……冗談でしょ」
僕は包帯の端を整えながら、できるだけ冷静を装ってそう返した。
でも、喉が乾いていた。
冗談のように聞こえなかったから。
「冗談だったら、わざわざ言わないよ」
アキトは、マグカップを傾ける。
そこから立ち上るのは、コーヒーじゃない。ハーブの香り。
ミントとレモングラスの清涼感が混ざった、変わった匂い。
「君は、今ここで寝て、食べて、働いている。
生活の基盤を、僕に握られている」
その声は、事実を並べているだけなのに、
なぜか命令より強く響いた。
「そうだとしても、“所有”なんて言葉で括られたくない」
「じゃあ、何て言えばいい?」
「……同居人、とか、雇用主とか……」
「弱いね。
“君は僕のもの”って言葉ほど、確かな関係はないと思うけど」
「支配じゃないか、それ」
「うん、支配だよ。
でも君は、それを拒んでない」
言葉が詰まった。
否定したかった。でも──できなかった。
「……ただ、逃げ場がないだけ」
「じゃあ、逃げ場があったら、僕から離れる?」
そう問われて、僕は答えに窮した。
本当なら、即答すべきだった。
でも、すぐに言葉が出てこなかったのは、なぜだろう。
「……わからない」
「それでいい。人間は、わからないものに支配されるから」
彼は立ち上がり、机の端に腰をかけて、僕を見下ろす。
「君は、僕のものだよ、ルイ。
形はどうでもいい。中身がそれを認めていれば、十分だ」
そう言った彼の仮面に、
ほんの一瞬、自分の顔が映った気がした。
それは、僕の知らない顔だった。
僕は、包帯の結び目をじっと見つめていた。
この白い布の中に、何が込められているのか。
所有の印か、救いの契約か。
まだ答えは出なかった。
でも、少なくとも一つだけはわかっていた。
この手を取ったのは、自分だということ。
「……じゃあさ」
ふいに口を開いた僕の声は、思ったより静かだった。
「その“鎖”があるなら……僕も、逆に使わせてもらうよ」
「ほう?」
「僕が君に縛られるなら、君も僕の中に結びつけられるってこと」
アキトは仮面の奥で笑った気がした。
「その考え、嫌いじゃない」
「僕は“所有物”じゃない。ただの“契約者”だ」
「でも、“鎖”は切れない」
「望むところだよ。引きずってでも連れてく」
そう言った自分の声に、どこか体温が戻ってきた気がした。
寒くて凍えていた体が、少しだけ息を吹き返す。
――これは服従なんかじゃない。
これは、僕なりの戦いだ。
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