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 第6話 僕を潰した“彼”の顔

 市場は、朝から喧騒に満ちていた。  叫ぶような声で値段を告げる八百屋。  威勢のいい魚屋の兄ちゃんが、まだ跳ねる鯖を掲げている。  焼きたてのパンの香り、濃い醤油の匂い、油のはねる音。  それらが雑多に混じり合い、ここにしかない“生きた空気”を作っていた。  ……けれど、その空気に、僕は馴染めなかった。  アキトに頼まれて、少しの食材を買いに出た。  それだけの用事なのに、身体がぎこちなくなる。  背筋を伸ばして歩いているつもりなのに、どこか浮いている気がする。  通りすがる人がちらりとこちらを見るたび、無意識に目を逸らしてしまう。  服はもう“上流階級”のものじゃない。  地味なシャツと黒いズボン。だがそれが逆に、「堕ちた元貴族」のように目立つ。  財布には、最低限の硬貨しか入っていなかった。  小銭の感触が、なぜか手のひらに重い。  にぎやかな市場の中で、僕だけが色を失っていた。  薔薇として咲いていた日々は、もう誰の目にも映らない。 「いらっしゃい、見ていくだけでも──」  声をかけられるたびに、びくりと肩が跳ねる。  昔なら、こんな場所で声をかけられることなんてなかったのに。  そう思った自分に、軽く吐き気がした。  足早に逃げるようにして、通りの脇道へ入る。  雑踏が少し遠ざかる。  けれど、そこに安心があったわけじゃない。  空がやけに広く見えた。  高いビルの合間から、日差しがまばらに差し込んでいる。  その光すら、僕には“誰かのためのもの”のように感じた。  と、そのときだった。  向かいの通りから、ひときわ目立つ一団が歩いてくるのが見えた。  制服のように揃った黒のスーツ。  その中心で笑っていたのは──  ナオトだった。  逃げるように、壁際の陰に身を寄せた。  視界の端で、ナオトが歩いてくるのが見える。  あいかわらずの堂々とした歩幅。  笑うとき、肩を少しだけすくめる癖──昔から変わっていない。  それを見て、息が詰まりそうになった。  逃げなきゃ。  でも、足が動かない。  喉の奥に苦いものがせり上がってくる。 (見られたくない) (でも……見てほしいのか? 違う) (ただ──気づいて、ほしかった)  そんな自分に、また吐き気がした。  ナオトは、スーツ姿の取り巻きを従えて歩いていた。  まるで何かの視察のようだった。  傍らの青年が何か耳打ちすると、彼は声を上げて笑った。 「あの子、乞食みたいな顔してただろ。……いや、まさか、違うよな?」  ――僕のことじゃない。たぶん。  でも、“違う”と断言できる確信なんて、どこにもなかった。 「腹でも空かせて、パンくずを探してたんじゃないか?」  その瞬間、世界の色がすっと変わった気がした。  たぶん、僕のことじゃない。  きっと、たまたま近くにいた誰かの話。  でも──  その“たまたま”に、自分が含まれているかもしれない現実が、一番痛かった。  顔を伏せて、壁に額を押しつける。  通りすぎろ。早く、通りすぎてくれ。  一瞬、足音が止まった気がして、心臓が跳ねた。  顔を上げると、ナオトの目が、こちらを“通り過ぎた”。  見ていたかどうか、もうわからない。残ったのは、耳に残る笑い声だけだった。  足音が遠ざかっていく。  ナオトの姿は、もう小さくなっていた。  だけど、頭の中では彼の笑い声が、何度も何度もリピートされていた。 「乞食みたいな顔──」  ほんの冗談。  通りすがりの他人に向けた無責任なひとこと。  でもそれが、今の僕にとっては、刃物より鋭かった。  気づかれなかったことが、何よりの侮辱だった。  ここにいるのに。  目の前を通ったのに。  かつて隣にいたのに──もう、存在すら認識されない。  その現実が、喉を詰まらせる。  怒りよりも、悲しみよりも、空虚感が先に来た。  まるで、僕の存在が世界から“削除”されたみたいだった。  目を閉じる。  浮かんでくるのは、かつての学園での思い出。  真神家の制服。いつも無造作にかけていたカーディガン。  小さな声で冗談を言うとき、ナオトがわずかに眉を上げる癖。  全部、知ってた。  誰よりも、知っていた。  だからこそ──  今の彼の顔が、“知らない人の顔”に見えた。  その笑顔は、誰にでも向ける「上級国民の仮面」。  僕の知っているナオトではなく、僕を壊したナオトの“顔”だった。 (これが、僕を潰した“彼”の顔か) (僕は、こんな顔に、人生を壊されたんだ)  そんな悔しさと吐き気と涙が、ぐちゃぐちゃに混ざって、  喉の奥でひとつの塊になった。  叫びたかった。でも、声が出なかった。  そのとき、背後から、確かに足音が聞こえた。けれど、それはどこか現実味がなかった。まるで、影が歩いてくるような音だった。 「見た?」  聞き慣れた声。低く、よく通る声。  振り返ると、仮面の男──アキトが立っていた。 「見たよ。君を潰した人間の顔」  仮面の奥から、視線が突き刺さる。 「それが、どれだけ“価値のない顔”だったか、君はちゃんと知れたね」  感情は、燃え上がるよりも、冷める方が怖い。  そう思ったのは、アキトの声を聞いたあとだった。  胸の中で渦を巻いていた怒りや悲しみが、まるで潮が引くように静かに冷えていく。 「……価値のない顔、か」  小さく呟いた自分の声が、やけに平坦だった。  あのとき、ナオトが本当に僕を見ていたのかどうかは、もうどうでもよかった。  ただ一つはっきりしたのは──  僕は、あの顔に“見捨てられた”という事実を、生涯忘れないだろうということだった。  振り返ってアキトを見た。  彼の仮面は、いつも通り何も語らない。  でも、その沈黙の中に、何かを見透かしているような気配があった。 「君はこれから、選び続けることになる。  どうやって生きるか。どうやって許すか。あるいは──どうやって壊すか」 「……壊す、か」 「うん。壊されてばかりの人生なんて、つまらないだろう?」  その言葉が、妙に自然に胸に入り込んだ。  まるで、昨日まで知らなかった毒が、血に混ざっていくように。 「……だったら、僕も“壊す側”になってやるよ」 「いいね。復讐は、弱者が最後に手にする、唯一の晩餐だからね」  アキトが仮面越しに笑ったような気がした。  そして最後に、こう言った。 「“君を潰した彼”の顔を、今度は君が笑わせてあげなよ。  君の価値を知らなかったことを、悔やませるくらいにね」 (僕の価値を、あの仮面の下の誰よりも高くしてやる。見てろよ、ナオト)  僕が選ぶ武器は、憎しみじゃない。味だ。――お前の記憶に残る、唯一の味を、僕が作る。

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