8 / 44

 第7話 傷ついた手の味

 夜風が、傷にしみた。  帰り道、屋台の明かりが背後に遠ざかる。  人混みの中にいるときは気が紛れていたけれど、ひとりになると、痛みが正直に主張し始める。  右手の甲。  昨日、石畳にぶつけたときの傷が、まだ赤く腫れていた。 (大したことないって思ってたのに……)  歩くたび、体の重心が微妙に狂う。  ほんの小さな傷なのに、やけに存在感がある。  それが、苛立たしかった。 (あいつの顔なんて、忘れてやる──そう決めたばかりなのに)  でも、体は正直だった。  傷口のズキズキとした熱が、復讐という言葉を遠ざけていく。  店の明かりが少ない裏路地。  アキトの店に続く、少し寂しい小道。  その静けさが、まるで傷口の疼きを拡張させるようだった。  ふと、誰かの気配を感じて振り返る。  ──いない。また、幻覚かと思った。  でも確かに、足音をもうひとつ、聞いた気がした。  背後に気配を感じながら、ゆっくりと店の扉を開ける。  カラン、と鈴が鳴る。  静かな店内。  カウンターに、仮面の男がいた。  アキトは僕を見るなり、目線を落として言った。 「その手、見せて」 「……平気」 「嘘」  それだけを告げて、彼はすっと立ち上がった。  黒い手袋を外す音が、妙に静かに響いた。 「君の“嘘”、だいぶ覚えてきたから」 ◆ ◆ ◆  洗面所の照明は、やけに白かった。  陶器の洗面台に水が流れる音だけが、世界のすべてだった。  アキトは無言のまま、僕の右手を取り上げる。  温かい指先が、包帯の端に触れた瞬間、思わず肩が跳ねた。 「怖がらないで。……痛くしないよ」  その声に、なぜか逆に不安が増した。  僕の手を固定したまま、アキトは丁寧に包帯をほどく。  布の擦れる音が、やけに生々しく感じられた。  傷口が露わになる。  赤く腫れた皮膚。わずかな出血。  汚れが入り込んだまま、癒えきっていない。  アキトは息を吐くように言った。 「放っておけば、膿んでたね」 「……知ってたなら、なんで放っておいたの」 「君が、“助けて”って言わないから」  その言葉に、なにも返せなかった。  アキトは洗浄液をコットンに染み込ませ、それを軽く押し当てた。 「っ……!」  瞬間、鋭い痛みが走る。  唇を噛んで、声を飲み込んだ。 「がまん強いね。……でも、それ、時々、逆効果だよ」  コットンがゆっくりと、丁寧に傷をなぞる。  痛みはある。でも、妙に落ち着く手つきだった。  消毒が終わると、アキトは市販薬の蓋を静かに開けた。  指先にすくったクリームが、やけに冷たかった。 「熱がこもってる。腫れ、引くかもしれない」 「医者……みたいだね」 「まあね。人の“痛み”の扱いには、慣れてる方だから」  それが比喩か、本当かはわからなかった。  やがて手当てが終わり、新しい包帯が巻かれる。  アキトの指先が布の上を滑るたびに、不思議な感覚があった。  手を治されているのに、どこかで“心”を触られている気がした。 「……はい、できた」  その声に、僕はそっと手を引いた。  でも、体温の記憶だけは、なかなか消えてくれなかった。 「……終わったなら、離してよ」  そう言いながらも、僕の手はまだアキトの手の中にあった。  包帯で覆われた右手を、彼は静かに撫でる。  まるで、それが繊細なガラス細工でもあるかのように。 「綺麗な手だよね。白くて、薄くて……少し骨ばってる。  でも、何より惹かれるのは、ここだよ」  そう言って、彼の指が、包帯の端を撫でた。  その瞬間、僕の背中に、ぞくりと電流が走る。 「……なに、して……」 「この手には、君の“記憶”が染み込んでる。  怒りも、涙も、そして……誰にも見せなかった、痛みの味も」  意味がわからなかった。  理解したくもなかった。  けれど、次の瞬間。  彼の唇が、僕の包帯に、そっと触れた。  それはキスよりもずっと静かで、  キスよりもずっと、体の奥を震わせた。 「舐めたの……?」  かすれた声が、唇から漏れた。  アキトは顔を上げて、笑っていた。  仮面の下のその笑みが、なぜか見えた気がした。 「不思議だよね。君の痛み、少し甘い気がしたんだ」 「……驚いた?」 「……最低」  それ以上、何も言えなかった。  言葉が出てくる前に、喉が詰まった。  手を引こうとした。でも、逃げられなかった。  アキトは、僕の手をゆっくりと両手で包み込んだ。 「君の痛みは、誰にも触れられなかった“感情の原液”。  それを味わう資格を、君は僕に与えた──黙って、手を差し出すことでね」 「僕は、そんなつもり……」 「あるよ。  助けてって言えなかった代わりに、黙って差し出しただろう?  その手で、君は僕を選んだんだよ」  言い返す気力が、残っていなかった。  触れられただけのはずなのに、  心の奥にまで、何かが染み込んできた気がした。  アキトの言葉が、毒のように効いてくる。  それが甘い毒だと気づいたときには、  もう息を止めることすらできなかった。  空気が、重たかった。  手に残るぬくもりは、とっくに消えているはずなのに、  心の中でだけ、それがまだくすぶっていた。 「……優しくすれば、なんでも許されると思ってる?」  それは、僕自身にもぶつけた問いだった。  アキトは少しだけ首をかしげて、静かに笑った。 「許されるなんて、思ってないよ。  ただ、君が“誰かに甘えたい”と思ったときに、  そこに僕がいればいい。──それだけさ」  その言葉が、妙に胸に刺さる。  ずるい。  優しさに見せかけて、首輪をつけてくる。  でも、僕は──その首輪を、嫌だと思いきれなかった。 「……わからなくなるよ。  あなたの優しさが、本物なのか、それとも──」 「支配か、って?」  アキトが言葉を引き取る。  そして、仮面越しの視線で僕を捉えたまま、囁くように言った。 「どちらも、だよ。  優しさと支配は、もともと同じ“形”をしてる。  だから君が混乱するのは当然だ」  わからない。  本当に、わからなかった。  でも、確かにひとつだけ──僕は今、ここにいて、  誰かの言葉に、誰かの手に、救われたような気がしている。 「……やっぱり、最低」 「うん。君がそう言ってくれると、少し安心する」  アキトの声は、どこまでも静かで、そして優しかった。  その優しさが、檻の内側にいる僕を、そっと撫でてくる。  たとえそれが、檻の内側の幸福でも──僕は、そこにすがりたかった。

ともだちにシェアしよう!