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第7話 傷ついた手の味
夜風が、傷にしみた。
帰り道、屋台の明かりが背後に遠ざかる。
人混みの中にいるときは気が紛れていたけれど、ひとりになると、痛みが正直に主張し始める。
右手の甲。
昨日、石畳にぶつけたときの傷が、まだ赤く腫れていた。
(大したことないって思ってたのに……)
歩くたび、体の重心が微妙に狂う。
ほんの小さな傷なのに、やけに存在感がある。
それが、苛立たしかった。
(あいつの顔なんて、忘れてやる──そう決めたばかりなのに)
でも、体は正直だった。
傷口のズキズキとした熱が、復讐という言葉を遠ざけていく。
店の明かりが少ない裏路地。
アキトの店に続く、少し寂しい小道。
その静けさが、まるで傷口の疼きを拡張させるようだった。
ふと、誰かの気配を感じて振り返る。
──いない。また、幻覚かと思った。
でも確かに、足音をもうひとつ、聞いた気がした。
背後に気配を感じながら、ゆっくりと店の扉を開ける。
カラン、と鈴が鳴る。
静かな店内。
カウンターに、仮面の男がいた。
アキトは僕を見るなり、目線を落として言った。
「その手、見せて」
「……平気」
「嘘」
それだけを告げて、彼はすっと立ち上がった。
黒い手袋を外す音が、妙に静かに響いた。
「君の“嘘”、だいぶ覚えてきたから」
◆ ◆ ◆
洗面所の照明は、やけに白かった。
陶器の洗面台に水が流れる音だけが、世界のすべてだった。
アキトは無言のまま、僕の右手を取り上げる。
温かい指先が、包帯の端に触れた瞬間、思わず肩が跳ねた。
「怖がらないで。……痛くしないよ」
その声に、なぜか逆に不安が増した。
僕の手を固定したまま、アキトは丁寧に包帯をほどく。
布の擦れる音が、やけに生々しく感じられた。
傷口が露わになる。
赤く腫れた皮膚。わずかな出血。
汚れが入り込んだまま、癒えきっていない。
アキトは息を吐くように言った。
「放っておけば、膿んでたね」
「……知ってたなら、なんで放っておいたの」
「君が、“助けて”って言わないから」
その言葉に、なにも返せなかった。
アキトは洗浄液をコットンに染み込ませ、それを軽く押し当てた。
「っ……!」
瞬間、鋭い痛みが走る。
唇を噛んで、声を飲み込んだ。
「がまん強いね。……でも、それ、時々、逆効果だよ」
コットンがゆっくりと、丁寧に傷をなぞる。
痛みはある。でも、妙に落ち着く手つきだった。
消毒が終わると、アキトは市販薬の蓋を静かに開けた。
指先にすくったクリームが、やけに冷たかった。
「熱がこもってる。腫れ、引くかもしれない」
「医者……みたいだね」
「まあね。人の“痛み”の扱いには、慣れてる方だから」
それが比喩か、本当かはわからなかった。
やがて手当てが終わり、新しい包帯が巻かれる。
アキトの指先が布の上を滑るたびに、不思議な感覚があった。
手を治されているのに、どこかで“心”を触られている気がした。
「……はい、できた」
その声に、僕はそっと手を引いた。
でも、体温の記憶だけは、なかなか消えてくれなかった。
「……終わったなら、離してよ」
そう言いながらも、僕の手はまだアキトの手の中にあった。
包帯で覆われた右手を、彼は静かに撫でる。
まるで、それが繊細なガラス細工でもあるかのように。
「綺麗な手だよね。白くて、薄くて……少し骨ばってる。
でも、何より惹かれるのは、ここだよ」
そう言って、彼の指が、包帯の端を撫でた。
その瞬間、僕の背中に、ぞくりと電流が走る。
「……なに、して……」
「この手には、君の“記憶”が染み込んでる。
怒りも、涙も、そして……誰にも見せなかった、痛みの味も」
意味がわからなかった。
理解したくもなかった。
けれど、次の瞬間。
彼の唇が、僕の包帯に、そっと触れた。
それはキスよりもずっと静かで、
キスよりもずっと、体の奥を震わせた。
「舐めたの……?」
かすれた声が、唇から漏れた。
アキトは顔を上げて、笑っていた。
仮面の下のその笑みが、なぜか見えた気がした。
「不思議だよね。君の痛み、少し甘い気がしたんだ」
「……驚いた?」
「……最低」
それ以上、何も言えなかった。
言葉が出てくる前に、喉が詰まった。
手を引こうとした。でも、逃げられなかった。
アキトは、僕の手をゆっくりと両手で包み込んだ。
「君の痛みは、誰にも触れられなかった“感情の原液”。
それを味わう資格を、君は僕に与えた──黙って、手を差し出すことでね」
「僕は、そんなつもり……」
「あるよ。
助けてって言えなかった代わりに、黙って差し出しただろう?
その手で、君は僕を選んだんだよ」
言い返す気力が、残っていなかった。
触れられただけのはずなのに、
心の奥にまで、何かが染み込んできた気がした。
アキトの言葉が、毒のように効いてくる。
それが甘い毒だと気づいたときには、
もう息を止めることすらできなかった。
空気が、重たかった。
手に残るぬくもりは、とっくに消えているはずなのに、
心の中でだけ、それがまだくすぶっていた。
「……優しくすれば、なんでも許されると思ってる?」
それは、僕自身にもぶつけた問いだった。
アキトは少しだけ首をかしげて、静かに笑った。
「許されるなんて、思ってないよ。
ただ、君が“誰かに甘えたい”と思ったときに、
そこに僕がいればいい。──それだけさ」
その言葉が、妙に胸に刺さる。
ずるい。
優しさに見せかけて、首輪をつけてくる。
でも、僕は──その首輪を、嫌だと思いきれなかった。
「……わからなくなるよ。
あなたの優しさが、本物なのか、それとも──」
「支配か、って?」
アキトが言葉を引き取る。
そして、仮面越しの視線で僕を捉えたまま、囁くように言った。
「どちらも、だよ。
優しさと支配は、もともと同じ“形”をしてる。
だから君が混乱するのは当然だ」
わからない。
本当に、わからなかった。
でも、確かにひとつだけ──僕は今、ここにいて、
誰かの言葉に、誰かの手に、救われたような気がしている。
「……やっぱり、最低」
「うん。君がそう言ってくれると、少し安心する」
アキトの声は、どこまでも静かで、そして優しかった。
その優しさが、檻の内側にいる僕を、そっと撫でてくる。
たとえそれが、檻の内側の幸福でも──僕は、そこにすがりたかった。
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