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第8話 店は、檻のようで
「ここが……僕の店?」
木造の古びた建物。
商店街の外れに、ぽつんと取り残されたような平屋だった。
ひび割れた窓ガラス、剥がれかけた庇、
看板の文字は、もう読み取れないほどに風化している。
けれど──どこか、温かい匂いがした。
焦げた油と、木の床の匂い。
遠い記憶を呼び起こすような、懐かしい香りだった。
「古いけど、設備は揃ってる。前の持ち主が料理人でね。
そのままにして出て行ったから、使おうと思えばすぐ使える」
背後でアキトが説明する声がした。
僕は扉に手をかけた。
開くかどうか、確かめるように、ゆっくりと押す。
──軋む音。
扉は抵抗するように重たかったが、やがて観念したように開いた。
店内は埃っぽかった。
カウンター席と、木製のテーブルがいくつか。
厨房には、古いガス台と冷蔵庫が並んでいた。
誰かが、ここで生きていた。
誰かが、ここで料理をしていた。
──そんな気配だけが、残っていた。
「……使わせてもらっていいの?」
「もちろん。君が“働きたい”と言ったから、用意しただけだよ」
アキトはいつも通り、仮面を外さないまま、僕の横を通り過ぎる。
その足取りが、なぜか“先回りしていた”ような気がした。
まるで、僕がここに来ることを、
ずっと前から知っていたかのように。
「家も、名前も、全部なくした。
でも、料理なら……まだ、僕の中に残ってる気がするんだ」
「それでいい。
君がそう思えるなら、ここが“君の場所”になる」
アキトが手にしていた鍵を、僕に差し出した。
その小さな銀の鍵は、ひんやりと冷たかった。
けれど、それでも──
この手の中に収まるものが、ようやく現れたような気がした。
僕は、何も言わず、そっとそれを受け取った。
鍵を握りしめたまま、僕はもう一度、店内を見渡した。
奥の窓から差し込む午後の光が、
埃の粒をゆっくりと浮かび上がらせる。
まるで時間が止まった場所に、僕だけが入り込んでしまったようだった。
「ここ、本当に僕が使っていいの?」
問いは、まだ不安の中にあった。
“与えられたもの”を信じるには、あまりにも多くを失いすぎたから。
アキトは、少しだけ首をかしげた。
「君が料理をしたいと言った。
働いて、生きる理由を見つけたいとも言った。
ならば、そのための場所を与えるのは当然のことだろう?」
「……でも、なんでそこまで?」
素直に出てきた疑問だった。
僕はまだ、彼のことを何ひとつ知らないのに。
するとアキトは、カウンターの椅子に腰を下ろしながら、
仮面越しに、まっすぐ僕を見た。
「君には“檻”が必要なんだよ、ルイ」
言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
「傷ついた獣は、広すぎる自由に怯える。
だからこそ、安心できる“囲い”がいるんだ。
この店は、君の檻。安心して、ここに閉じこもればいい」
「それって──僕が、逃げるのを見越して?」
「違う。“逃げ出さないようにする”ためさ」
静かに、淡々と告げられるその声が、
優しさと残酷さの中間にあった。
アキトは、手袋越しにカウンターの木目を撫でた。
「ここにいれば、君は誰にも見下されない。
笑われることも、奪われることもない。
君が料理する姿を、俺だけが見ていられる」
「……独占欲?」
「もしそうなら、それも悪くないだろう?」
反論しようとして、言葉が喉に詰まった。
否定しなきゃいけないのに、心のどこかで、安心している自分がいた。
僕は、たぶん、“逃げ場所”という名の檻を、欲していたのだ。
守られることで、ようやく立てる弱さも──今の僕には、必要だった。
その現実が、悔しくて、でも──救いでもあった。
モップの柄を強く握ったせいで、手のひらに鈍い痛みが走った。
古びた床を擦るたび、木の軋みと、埃の匂いが混ざる。
拭いても拭いても、前の誰かの痕跡が浮かび上がってくるようだった。
「汚いな……もう……」
声に出すと、少しだけ楽になった。
でも、それは独り言ではなかった。
──気配がした。
背後の空気がわずかに揺れて、僕は動きを止めた。
誰もいないはずの厨房で、
“父”の姿が、影のように立っていた。
「火の入れ方が甘い。
お前はいつも、最後の一手を惜しむ。
料理に必要なのは、“覚悟”だ。わかってるか?」
聞き覚えのある叱声が、耳の奥でこだました。
「……いないよ、もう」
返しても、幻は消えなかった。
フライパンの裏に残る焦げ付き。
あの人が使っていた、重たくて、黒ずんだやつ。
僕の料理は、いつだって“父の型”から逃れられなかった。
それが嫌だったのに──今は、逆に、それが唯一の拠り所だった。
「なんでさ……
いなくなったくせに、いまさら残像だけ押しつけてくるんだよ……」
涙は出なかった。
でも、指の動きが止まった。
床に落ちた塵よりも、自分の中の“痛みの屑”の方が、ずっと厄介だった。
「でも……いいよ。やってやる。
この場所で、あんたを超えてやる。
その幻が消えるまで、僕は料理するよ」
誰にも届かない宣言だった。
けれどその声が、この狭い空間にだけは、きちんと響いた気がした。
看板を磨くスポンジの感触が、手に伝わっていた。
文字は消えていたけれど、土台の木はまだ生きていた。
濡れた布で何度も擦ると、うっすらと、前の店の名残が浮かび上がる。
僕は、それをなぞるように眺めた。
誰かが、ここで何かを成し遂げた証。
そして、僕がそれを塗り替えようとしている痕。
アキトが、脚立の上から新しい表札を渡してきた。
仮面の下で、彼がわずかに微笑んだ気がした。
──見透かされている。その感覚に、胸がざわついた。
そこには、金の文字でこう刻まれていた。
《Le Jardin Noir(黒い庭)》
「……フランス語?」
「意味は、“黒薔薇の庭”。君に似合うと思って」
「……黒い、か」
どこか呟くように、その言葉を繰り返した。
僕は薔薇だったのかもしれない。
誇り高く咲いて、誰にも触れさせなかった。
けれど、踏まれて、枯れて、黒く変色して──それでも、ここに根を張った。
店の名が、僕の一部になる。
それが、少しだけ誇らしく、でも怖かった。
アキトが言った言葉が、ふと脳裏に蘇る。
──君には檻が必要なんだよ。
「……うん、たぶん、そうなんだろうな」
鍵を握りしめ、扉を見つめる。
開けた瞬間に、ここはもう僕の“場所”になる。
逃げ場所であり、戦う舞台でもある。
守られることで、ようやく立てる弱さも──今の僕には、必要だった。
それが、たとえ檻でも──
“生きられる場所”なら、それでいい。
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