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 第9話 黒薔薇の香り

 開店初日。  といっても、看板を出しただけだった。  ガラス越しに、自分の顔がうっすら映るのが、やけに緊張を誘った。  誰かが来る保証なんて、どこにもないのに。  でも──来た。 「こんにちはー……って、ここ、お店?」  制服姿の女子高生がふたり、連れ立って店の前に立っていた。  小さな声で、「え、やってる?」「入ってみよーよ」なんて言いながら扉を開ける。 「……いらっしゃいませ」  僕の声は少し震えていた。  それは失敗への恐れじゃない。ただ──「誰かに認められる」ことの現実味が、急に怖くなっただけ。  厨房から覗いた視線と目が合って、女子高生たちは少し驚いたように笑った。 「うわ、イケメン!」「え、やば……」  こっそり囁き合う声が聞こえてきて、僕は鍋の取っ手を持ち直す。  準備していたメニューは三品だけ。  オムライス、ナポリタン、そして“気まぐれスープ”。 「オムライス、ふたつでお願いします!」  張りのある声が響く。  僕は深呼吸して、卵を割った。  焦げないようにフライパンを傾けながら、  昨日拭いたばかりの木のカウンターが、静かに空間を見守っていた。  音が、香りが、立ち上がっていく。  この空間が、初めて“僕の手”で満たされていく。  それが、少しだけ、誇らしかった。 「──お待たせしました」  皿を出すと、女子高生たちはスマホを構えて写真を撮る。  「映える〜」とか「うまそ〜」とか。  その言葉が、こんなにも嬉しいなんて思わなかった。  一口食べた彼女たちの表情が、ほわっと緩む。 「うわ、なにこれ……懐かしい味……」 「実家、思い出した……」  僕の中で、何かがじんわりとほどけた。  “美味しい”という感想を、こんなふうに受け取るのは初めてだった。  評価でも義務でもない。ただの、反射的な幸せの表現。  僕は、静かに深呼吸した。  この場所で、生きていけるかもしれない。  最初の客が帰ったあと、店内には静けさが戻った。  まだ誰もいないテーブルに、陽射しが斜めに差し込んでいる。  光と影が交差する、その真ん中に、アキトが座っていた。  相変わらず、仮面を外さない。  なのに、その“無表情”が、なぜか“じっと見つめている”ように感じられる。 「……なに?」  不意に視線を感じて、問いかけると、アキトは答えない。  ただ、細い指でカップを回していた。  黒い手袋に包まれたその動作が、妙に艶めかしい。  まるで、言葉より雄弁だった。 「言いたいことがあるなら、言えばいいじゃないか」 「……君が、料理をしているところを見るのは、楽しいんだよ」  静かに、でも確かに言った。 「楽しい? それだけ?」 「それ以上でも、それ以下でもない。  ただ──君の動き、息遣い、皿を出す手の震え。  どれも、とても……美しいと思った」  言葉の温度が、仮面越しに漏れた。  それが、怖かった。  なぜなら、それが“感情”だったから。 「見てるだけじゃ、飽きないの?」  挑むように返すと、アキトはくすりと笑った。 「君は、自分がどれだけ“見られる価値”があるか、わかっていない」 「……監視されてる気分なんだけど」 「それは、安心とも言うんだよ、ルイ」  仮面の奥で、どんな目をしているのかはわからない。  でも、言葉の底に潜む熱だけは、なぜかはっきりと伝わってくる。 「君が厨房にいる限り、俺はここにいる。それだけで……十分なんだ」  ……そう呟いた仮面の奥に、どこか満ち足りた“熱”が、確かにあった。  それは、所有の告白だった。  けれど──今の僕には、その言葉がなぜか、ひどく甘く響いた。  昼過ぎ、二組目の客が帰った頃だった。  店のドアが、静かに開いた。  立っていたのは、スーツ姿の中年男。  髪は七三分けで、靴はやけに光っていた。何より──鼻につくほど高級な香水の匂い。 「営業中、失礼します。保健局の者ですが」  名刺を差し出す手は形だけで、目だけが僕を測っていた。  まるで──誰かの目が、そこに重なっているような錯覚。  何かがおかしい。直感がそう告げた。 「突然で申し訳ありません。  市内での新規飲食店立ち上げには、いくつか抜き打ちの確認がありましてね」  笑顔は丁寧。だが、その言葉選びは妙に古風で、上から目線の匂いが濃い。 「店主さん、おひとりで?」 「……はい。何か問題でも?」 「いえいえ、ただの形式です。  ただ……厨房、少々お借りしますよ。火気の管理や、油の保存方法なども含めて」  男は許可も待たず、店内を歩き回る。  まるで“粗探し”を楽しんでいるかのように。  スープの鍋の蓋を、わざと雑に開ける。  皿の積み方に眉をひそめる。ゴミ箱の蓋を開け、鼻をしかめる。 「ふむ。……まあ、若い方には難しいことも多いでしょう。  “お坊ちゃま育ち”ですと、ね?」  その一言で、確信した。 (ナオトの……)  名乗らなくてもわかる。  この男は、あの家の“使い”だ。  ただの役人ではない。  真神ナオトの“意志”を、ここに届けに来た存在。 「ですが……この香りは、悪くない」  男が、ほんの少しだけ目を細めた。  オムライスの余韻が残る空気を、鼻で吸い込むようにして。 「まるで、薔薇のようですね。  少し枯れて、少し苦くて、それでいて人を惹きつける」 「……帰ってください」 「これは失礼、余計なことを」  男は何事もなかったかのように一礼し、去っていった。  けれど店の扉が閉まっても、あの香水の残り香だけが、しつこく店内に漂っていた。  あの男が去ったあとも、香水の残り香が、微かに鼻の奥に残っていた。  真神家のパーティー会場でよく漂っていた──あの家の匂いだった。 (これが、“あの家の空気”……)  懐かしいのに、息が詰まる。  過去の記憶が、鼻孔からじわりと侵入してくるようで、僕は思わず顔をしかめた。  ふと、手に残った香りに気づき、厨房の蛇口をひねる。  冷たい水で指を洗いながら、何度も何度もこすった。  それでも、取れない気がして、歯を食いしばる。 「……違う。もう違うんだ」  口に出すことで、呪いの残り香を吐き出そうとする。  僕はもう、“誰かの匂い”の中で、呼吸しなくていい。  換気扇が、静かに回っている。  その音とともに、あの重たい匂いがゆっくりと、店から追い出されていく気がした。  代わりに──僕が炒めた玉ねぎの匂い、  スープに使ったローリエとブラックペッパー、  焦げ目をつけたバターの香ばしさが、空間に立ち昇る。  この香りは、“あの家のもの”じゃない。  この香りは、僕が作った。僕が選んだ。僕の、香りだ。  黒薔薇の庭──《Le Jardin Noir》。  アキトがつけた店の名前は、奇妙にもしっくり来ていた。  黒く咲いて、誰にも触れさせない、でも確かにここに“在る”という証。  ──この香りで、過去を上書きしていく。  それが、僕の戦い方だ。  誰もいない店内に向かって、僕は小さくつぶやいた。 「ようこそ、“黒薔薇の庭”へ」  僕は、かつて閉じ込められた“檻”の中で、初めて誰かを迎え入れた。  この声もまた、空気の一部となって、  ゆっくりと、僕の香りに変わっていく。

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