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第10話 夜風が頬をなでる。
黒薔薇の庭を抜けて少し歩いた先に、坂の上の見晴らしのいい場所がある。
そこからは、かつて自分が住んでいた屋敷の屋根が、遠くに小さく見えた。
窓の灯りがひとつ、またひとつと消えていく。
あの頃、僕はその中のどの部屋で眠っていたんだっけ。
大きすぎる家。広すぎる寝室。深すぎる孤独。
それでも、屋根の上に映る光は、少しも変わっていないように見えた。
変わったのは、僕の立っている場所だった。
門の内側から見ていた景色が、
今は“外”からしか見えない。
それが現実だった。
ほんの数ヶ月前まで、僕はこの国の上位一%の側にいた。
何不自由なく、何の疑問もなく、誰かの庇護の下で呼吸していた。
でも──そんな世界は、一瞬で終わる。
父の死。爵位の剥奪。追放。そして孤独。
冷たくなった手を、息で温めながら、
それでも僕は、まっすぐ屋敷を見据えた。
あの家が、僕を捨てた。
なら、僕も捨てるしかない。
過去の幻想と、あの名に守られていた自分を──
真神家のルイじゃない。
──でも、“ただのルイ”で終わる気もない。
そのために、ここに立っている。
ふと、窓のひとつに、人影がよぎった気がした。
誰かが、カーテンの隙間からこちらを見ていたような──
そんな気配。
ナオト?
いや、母かもしれない。もしかしたら……“誰もいない”のかもしれない。
でも、かまわなかった。
僕があそこに戻ることは、もうない。
そう思えたとき、夜の冷たさが、少しだけ和らいだ気がした。
戻ると、アキトが店のカウンターにいた。
いつものように、仮面をつけたまま、指先でグラスをくるくると回している。
中身は、薄めの紅茶。氷はもう半分も溶けていた。
「夜風、冷たかったでしょ」
「……見てたの?」
「うん。君を見つけたら、夜が少しだけ明るく見えた」
その言葉は、甘いようで、どこか乾いていた。
僕はため息をついて、仮面を見た。
「さっきから気になってたんだけど……どうして、いつもそれ、つけてるの?」
「これ?」
アキトは自分の顔を指差し、くすりと笑った気配を見せた。
「気になる?」
「当たり前でしょ。顔が見えない人に、信用も好意も持てない」
「でも、君は手を取ったじゃないか。最初の夜に」
心臓が一瞬、跳ねた。
あの夜の、凍えた手と仮面の男の影が、脳裏をよぎる。
「……あれは、仕方なくだよ」
けれど、言葉にするほどに、あの夜の温度が胸の奥で再燃していく気がした。
「それでも、選んだのは君だよ」
そう言いながら、彼は少しだけ身を乗り出した。
仮面越しの眼差しが、空気をかすかに震わせる。
「僕が仮面をつける理由、知りたい?」
「知って、どうなるの?」
「たぶん、もっと怖くなる。
でも──もっと惹かれると思う。……怖いくらいにね。」
言葉に宿る熱が、仮面の冷たさと矛盾している。
「……意味がわからない」
「そう。それでいい。
君が“全部を知ろう”としたときに、僕はきっと──本当の顔を見せる」
その言い回しが、なぜかゾクリとした。
この人は、仮面の下に“何か”を隠している。それだけは確かだった。
支配か、保護か、それとも……ただの欲か。
けれど不思議と、それを「知りたい」と思ってしまう自分がいた。
「仮面をつけてるのは、僕じゃない。
君も──まだ、外してないだろ?」
アキトの言葉に、僕は返せなかった。
夜が、深くなっていく。
夜の帳が降りきる頃、僕は厨房の片隅で、小さなノートを開いていた。
アキトが残していった開店資金の計算、仕入れリスト、調味料の在庫管理、
全部、僕の字で埋め尽くされたノート。
このページには、もう“誰かの言葉”は載っていない。
父の命令も、ナオトの陰も、ここにはない。
書き込んでいるのは、僕の意志だけだった。
鍋の焦げ跡。火傷の跡。
手のひらに残る小さな傷が、今の僕のすべてを物語っていた。
でも、それでいいと思った。
“真神家のルイ”として生きていた頃は、
綺麗な指先を保つことが、誇りだった。
今は違う。
泥にまみれたって構わない。醜くたって、生きていればいい。
「……あの家を、潰す」
誰に言うでもなく、つぶやいた。
でもその言葉は、確かに空気に刻まれた。
あの家が僕を切り捨てたのなら、
僕は自分の手で、その“絶対の秩序”を壊してやる。
僕を嘲笑った奴らに、
僕を商品にしたこの社会に、
そして──あの日、僕を見下ろして笑ったナオトに。
潰される前に、潰す。
それが、生きるってことなんだ。
僕の“戦い”は、始まったばかりだ。
厨房の明かりを落とす。闇の中で、手の温度だけが残る。
深夜の空気は冷たく、けれどどこか清潔だった。
今日という一日が、確かに“終わった”と告げていた。
そして同時に、“何かが始まった”ことも。
僕は手のひらを見つめた。
傷のひとつひとつが、痛みよりも“証拠”のように思えた。
「……生きてやる」
その言葉に、誰かが応えるように、静かに風が吹いた。
街灯の下、影が伸びる。
その先に──黒いロングコートの男が立っていた。
いつからそこにいたのかは、わからない。
でも、それがアキトだということは、言葉を交わさずとも伝わった。
「ずっと……見てたの?」
問いかけると、彼は何も言わず、ほんのわずかに首を傾けた。
仮面が月光を弾き、無言のまま“頷いた”ようにも見えた。
僕はそっと歩み寄る。
その距離が、やけに遠く感じた。
ほんの数歩なのに、まるで“過去と未来”を隔てる壁のようだった。
「僕……やっと決めたんだ」
風が少し吹いて、枝の先で小さな葉が揺れた。
「“あの家”を、潰すよ。僕の手で。」
その瞬間、アキトの仮面の奥にある気配が、変わった気がした。
呼吸の間。
沈黙の質感。
空気の濃度すら、少しだけ熱を帯びた。
そして──
彼は、ほんの少しだけ、首を傾けて見せた。
仮面の下の口元が、わずかに、上がっていた。
微笑み。
それは、冷笑ではなかった。
嘲りでもなかった。
あの夜、手を差し出したときと同じ、“肯定”の笑みだった。
「ようやく、君らしくなってきたじゃないか」
初めて聞いた、“本当の声”だった。
その響きが、僕の胸の奥に、静かに火を灯した。
まるで仮面の裏で、ずっと“その時”を待っていたかのように。
この瞬間から、何かが確かに動き出した。
あの家に踏み潰された僕が──新しい名前と、新しい香りで、世界に再び爪痕を残す夜。
そう、これは始まりだ。
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