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 第40話 最終回:君を潰したのは、君の愛だった

 朝の光が、鏡の前のルイを照らしていた。  白いシャツの袖を捲り、静かにボタンを留めていく。  小さな指の動き。呼吸。脈の音。すべてが、異様なほど静かだ。  まるで、世界が音を潜めて彼の「言葉」を待っているようだった。  ルイは、鏡の中の自分を見つめる。  かつての彼ではない。怯えていた目も、嘘で塗り固めた仮面も、もうそこにはない。  「……俺を潰したのは、あの家じゃない」  小さな声が、鏡に跳ね返る。  「お前の言葉でも、ナオトの沈黙でもなかった」  「──俺を潰したのは、俺自身だった。お前の“愛”に、怯えて逃げた俺だ」  目を閉じて、ひとつ息を吐く。  長く詰まっていた棘が、ようやく喉から抜けていくような感覚だった。  「愛されるのが怖かった。認めたら、全部壊れそうで」  「でも、それって結局──自分を信じてなかっただけだよな」  ゆっくりと目を開く。  鏡の中の男は、もう檻の中にはいなかった。  それでも、檻の“鍵”だけは、まだポケットの中にある。  「……なら、今度は自分で開ける」  「逃げずに、許して、愛して、前を向く」  言葉にした瞬間、胸の奥が軽くなった。  赦しは、誰かのためじゃない。自分を抱きしめるための最初の行為だ。  鏡越しの自分に、ルイはようやく微笑んだ。  「……ありがとう。生きててくれて」  ◆  ◆  ◆  静かなバックスペース。  厨房の壁には、いつものように並ぶフライパンと鍋、そして新しいメモが貼られていた。  〈トマトのコンフィ、次回は温度低めで〉  〈アキト、ソースのバター減らして試す〉  その字は、見慣れた誰かのものだった。  「ルイ?」  背後からシオンが顔を覗かせた。すでにジャケットに着替え、帰る支度をしている。  「今日の“花”、すごかったよ。あのワンプレート、まるで歌だった」  ルイは微笑んだ。  厨房の熱、ホールの笑い声、それらが今は遠く感じる。  「ありがとう。……でも、今日の主役は俺じゃない」  そう言って視線を向けた先には、アキトがいた。  仮面を外した彼は、洗い場の前で黙々と片づけをしている。けれど、その指先には、緊張も、気負いもなかった。ただそこに“いる”という静かな気配。  「……あの人も、少し変わったよね」  「うん。俺も、たぶん」  「寂しくなるな、少し」  「……ここに、花が咲き続ける限り、また来れるだろ?」  シオンは、ほんの少し微笑んで「じゃあね」と去っていった。  ルイは手を拭き、厨房からゆっくりとホールへ戻る。  照明は落ち、グラスが片づけられたテーブルの上には、ひとつだけ置かれた白い薔薇があった。  それは、アキトが黙ってルイに差し出したもの。  「君はもう、檻の中じゃない」  低く、けれどどこまでも確かに響いた声。  ルイはその花を見つめながら、思った。  ──この店は、過去を葬る場所じゃない。未来を始める場所だ。  誰に縛られることもなく、誰かのために立ち尽くすのでもない。  ただ“隣に立つ”という、それだけの自由。  ルイは、そっとアキトの手を取った。  ◆  ◆  ◆  ルイの手を取ったアキトは、少しだけ戸惑ったように視線を落とした。  だが、その手は決して離れなかった。  「……変だよな。ずっと仮面越しでしか君と話せなかったのに、今こうして手を繋いでるなんて」  「変じゃないさ。俺たち、ちゃんと“選んだ”んだよ」  アキトの目が、かすかに見開かれた。  「逃げることも、黙ることもできた。でも、それをしなかった。……俺は、自分で、自分を選んだ」  その言葉に、アキトは静かに頷く。  彼の表情には、もうあの仮面の冷たさはなかった。  「君が俺を壊した。君の言葉が、君の料理が……俺の中の“鎖”をひとつひとつ外していった」  ルイは、そっと笑った。  「それは俺じゃない。“愛”だよ」  静かな沈黙が、ふたりの間に流れる。  店内の照明は落ちていたが、窓の外から朝の気配が差し込んでいた。  街が目を覚ましはじめる、その少し前の時間。  まだ音が少なく、空気がやわらかい。  ルイは椅子に腰掛け、アキトも隣に腰を下ろす。  ふたりの影が壁に長く伸びて、やがてゆっくり重なっていった。  「ねえ、ルイ」  「ん?」  「最後のお願い、していい?」  「……何?」  アキトは、わずかに恥ずかしそうに微笑んだ。  そして囁くように言った。  「“ありがとう”って、言ってほしい」  それは、ふざけた言葉じゃなかった。  まっすぐで、幼い願いのような響きだった。  ルイは一瞬、目を伏せたあと、ゆっくりと口を開いた。  「……ありがとう。俺に“出会ってくれて”」  アキトのまぶたが、かすかに揺れた。  それは、長い“檻”の物語に、静かに鍵がかかる音だった。  ◆  ◆  ◆  開店準備を終えた厨房には、新しい朝の光が差し込んでいた。  スパイスと焦がしバターの香りが、ほんのり空気に混ざる。  壁にかけられた新しい店の看板には、金色の文字でこう記されていた。  ──Rouge et Blanc  ──赤と白。憎しみと赦し。過去と未来。  ルイは包丁を握っていた。  何度も手放しかけたこの手で、今、新しい一皿を作っている。  客が来る時間には、まだ早い。  それでも、厨房には静かな熱があった。まるで、呼吸をしているみたいに。  アキトが、静かに後ろから現れる。  仮面はつけていない。エプロン姿のまま、素顔でそこにいた。  「君、変わったな」  「うん。……でも、変わらなかったものもある」  ルイは振り返らずに言う。  包丁のリズムが止まらない。その音に、すべての想いが込められていた。  「それは?」  「……この手で“生きたい”って思った気持ち」  アキトは、そっと笑った。  言葉は返さなかったが、彼の目がそれに応えていた。  ふと、ルイは手を止めて鏡の前に立つ。  そこには、かつて“仮面”をかぶっていた自分が映っていない。  ただ、まっすぐ前を向いた、自分の顔があるだけだった。  「……俺を潰したのは、たぶんナオトでも、家でもなかった」  鏡に映る自分へ、静かに語る。  「潰したのは、“愛”だったんだよ……   でも、救ったのも、“愛”だった」  そのとき、アキトが背後からそっとルイの肩に手を置く。  何も言わず、ただ、その温度を伝えるように。  ルイは、微笑んだ。  「行こう。俺たちの“朝”が、始まるから」  扉を開けた先に、光があった。  世界はまだ静かだが、確かに、ここから動き出す。  新しい日々が、この場所で始まる。  ふたりの影が重なる。  それはもう、檻の中の影じゃない。  ただ、未来へ伸びていく“ふたりの形”だった。  ──幸福は、まだ檻の中かもしれない。  でも、扉はもう開いている。  鍵は、この手にある。  そしてルイは、静かに歩き出した。  完

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