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 第39話 最後のキスを、君にだけ

 朝焼け前の空は、薄い群青に染まっていた。  その中に、星の名残がいくつか瞬いている。  ルイは、まだ静かな街路を歩いていた。ジャケットのポケットに手を入れ、吐く息を白くして。  目的地は、わかっていた。  でも足取りは、どこかためらいがちだった。  ──行くべきか、行かざるべきか。  そんな問いは、もう何度も繰り返してきたはずなのに。  けれど今日は違った。  歩みを止めなかったのは、胸の奥で誰かの言葉が静かに灯っていたからだ。  「君が選ばなくてもいい。──でも、僕は君を選んだ」  アキトの声。あの夜の、最後の言葉。  それが、いまのルイの背を押していた。  やがて、古びたビルの前に立つ。  白く塗られた扉。いつか一緒に塗り直したあの扉だ。  手を伸ばし、ノックをしようとして──やめる。  中から、かすかな音が聞こえた。  足音。気配。ドアがゆっくりと開く。  「……来ると思ってた」  仮面のないアキトが、そこに立っていた。  黒いシャツのボタンは少し外されていて、眠たげな髪が少しだけ乱れている。  「早起きだな」  「君の足音が、目覚ましだったからね」  その言葉に、ルイはふっと笑った。  笑った自分に気づいて、少しだけ驚いた。  ◆  ◆  ◆  部屋の中は、ほんのりと朝の光に満ちていた。  カーテンはまだ閉じられているのに、窓の隙間から差し込む光が、床に淡い色を落としている。  ルイは何も言わずに、アキトの隣に立った。  少しの沈黙が、逆に心を静かにしていく。  「……まだ、迷ってる?」  アキトの声は、仮面を外してからのものにしては、ずいぶんと穏やかだった。  「もう迷ってない。……ただ、怖いだけだ」  ルイは正直に言った。その言葉に、飾りはなかった。  アキトはうなずいた。  「それでいいよ。君が恐れているのは、“嘘のない場所”に踏み込むことだろう?」  「そういう場所は……優しすぎて、残酷だ」  ルイは、思わず目を伏せる。  「お前の前では、ずっと鎧を着てた。でも、仮面を外したのは、お前のほうだった」  「……だから俺も、もう隠せない」  静かに、アキトが手を伸ばす。  その手は、ルイの頬に触れるわけでも、髪を撫でるわけでもなく、ただそっと、胸元に置かれた。  「ここにあるものを、信じてくれたら、それでいい」  アキトの指先から、体温が伝わってくる。  「言葉なんて、いらないんだよ。……本当に伝えたいものは、きっと、手と手の間にあるから」  ルイは、そっと目を閉じた。  恐怖が、少しずつ輪郭を失っていく。  それと同時に、何かが確かに生まれていく感覚があった。  ◆  ◆  ◆  ルイは、ゆっくりとアキトの手を取った。  その手のひらには、いくつもの傷跡があった。過去に触れ、誰かを守ろうとして、傷ついてきた手。  それが今、自分の指の間にある。  「お前の手、冷たいな」  ルイがぽつりと呟くと、アキトはかすかに笑った。  「そういう君の手も、震えてる」  「……わかってる」  ルイは目を伏せたまま答えた。  「ずっと怖かった。誰かに触れて、心が壊れるのが。……でも、それ以上に怖かったのは、誰にも触れられないことだった」  その言葉に、アキトはもう何も言わなかった。  ただ、ルイの手を握る力が、ほんのわずか強くなる。  そして、ルイが静かに顔を上げた。  仮面を外したアキトの素顔が、目の前にある。あまりにも近くて、まぶしくて、見ていられないほどだった。  「……なあ、アキト」  「うん」  「お前のことを“好き”って、言葉にしてもいい?」  その問いは、まるで祈りのようだった。  アキトは頷く代わりに、ルイの頬に手を添えた。  そして、声を持たずに唇を動かす。  「君だけに、言ってほしい」  ルイの喉が小さく鳴った。  言葉にするより先に、体が動いた。  ──唇が、重なる。  ゆっくりと、確かに。  それは、悲しみでも執着でもない。“赦し”のキスだった。  ◆  ◆  ◆  ──時が、止まったようだった。  キスは深くはなかった。けれど、濃かった。  触れるだけなのに、すべてが伝わる気がした。怒りも、哀しみも、悔しさも、愛しさも。  言葉では伝えられなかった思いが、唇の温度に染み込んでいく。  アキトの指が、そっとルイの髪を梳く。  ルイは、その手を逃がさなかった。仮面のない素顔と向き合うのが怖くなくなっていた。  「もういい」と、誰かに言ってほしかった。それが、自分自身でもかまわないと、今なら思える。  「……キスだけじゃ、足りないな」  ルイがそう呟くと、アキトは小さく笑った。  「でも、十分だったよ。今の君からもらえたなら」  「……ずるいな、お前。いつも、先に赦してくる」  「だって、君は自分を赦すのがいちばん下手だから」  ルイは、息を吐いた。  ようやく胸の奥で、長い時間溜まっていた痛みが、音もなくほどけていくのを感じていた。  「アキト」  「ああ」  「俺、お前のことを、たぶん……ずっと怖がってた」  「知ってる」  「でも、もう大丈夫みたいだ」  「……それが聞けてよかった」  二人の間を、しばしの静寂が包む。  夜の空気が、肌を撫でていく。けれどその寒さに、もう心は震えなかった。  ルイは、ゆっくりとアキトの胸元に額を預ける。  その体温を感じながら、囁いた。  「ありがとう、俺を見ててくれて」  「……まだ見てるよ。これからも」  ルイはそっと目を閉じた。  このキスで、ようやく過去の痛みに「終わり」を告げることができた気がした。  だけど、それは終わりじゃない。  これは、始まりだ。新しいルイとして、自由を選ぶ未来への。  ──だからこそ、このキスは“最後”にする。  “言葉”はいらない。もう、見つめ合うだけで伝わるから。  そして夜が、やさしく幕を下ろす。  静かな決意とともに。

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