43 / 44
第39話 最後のキスを、君にだけ
朝焼け前の空は、薄い群青に染まっていた。
その中に、星の名残がいくつか瞬いている。
ルイは、まだ静かな街路を歩いていた。ジャケットのポケットに手を入れ、吐く息を白くして。
目的地は、わかっていた。
でも足取りは、どこかためらいがちだった。
──行くべきか、行かざるべきか。
そんな問いは、もう何度も繰り返してきたはずなのに。
けれど今日は違った。
歩みを止めなかったのは、胸の奥で誰かの言葉が静かに灯っていたからだ。
「君が選ばなくてもいい。──でも、僕は君を選んだ」
アキトの声。あの夜の、最後の言葉。
それが、いまのルイの背を押していた。
やがて、古びたビルの前に立つ。
白く塗られた扉。いつか一緒に塗り直したあの扉だ。
手を伸ばし、ノックをしようとして──やめる。
中から、かすかな音が聞こえた。
足音。気配。ドアがゆっくりと開く。
「……来ると思ってた」
仮面のないアキトが、そこに立っていた。
黒いシャツのボタンは少し外されていて、眠たげな髪が少しだけ乱れている。
「早起きだな」
「君の足音が、目覚ましだったからね」
その言葉に、ルイはふっと笑った。
笑った自分に気づいて、少しだけ驚いた。
◆ ◆ ◆
部屋の中は、ほんのりと朝の光に満ちていた。
カーテンはまだ閉じられているのに、窓の隙間から差し込む光が、床に淡い色を落としている。
ルイは何も言わずに、アキトの隣に立った。
少しの沈黙が、逆に心を静かにしていく。
「……まだ、迷ってる?」
アキトの声は、仮面を外してからのものにしては、ずいぶんと穏やかだった。
「もう迷ってない。……ただ、怖いだけだ」
ルイは正直に言った。その言葉に、飾りはなかった。
アキトはうなずいた。
「それでいいよ。君が恐れているのは、“嘘のない場所”に踏み込むことだろう?」
「そういう場所は……優しすぎて、残酷だ」
ルイは、思わず目を伏せる。
「お前の前では、ずっと鎧を着てた。でも、仮面を外したのは、お前のほうだった」
「……だから俺も、もう隠せない」
静かに、アキトが手を伸ばす。
その手は、ルイの頬に触れるわけでも、髪を撫でるわけでもなく、ただそっと、胸元に置かれた。
「ここにあるものを、信じてくれたら、それでいい」
アキトの指先から、体温が伝わってくる。
「言葉なんて、いらないんだよ。……本当に伝えたいものは、きっと、手と手の間にあるから」
ルイは、そっと目を閉じた。
恐怖が、少しずつ輪郭を失っていく。
それと同時に、何かが確かに生まれていく感覚があった。
◆ ◆ ◆
ルイは、ゆっくりとアキトの手を取った。
その手のひらには、いくつもの傷跡があった。過去に触れ、誰かを守ろうとして、傷ついてきた手。
それが今、自分の指の間にある。
「お前の手、冷たいな」
ルイがぽつりと呟くと、アキトはかすかに笑った。
「そういう君の手も、震えてる」
「……わかってる」
ルイは目を伏せたまま答えた。
「ずっと怖かった。誰かに触れて、心が壊れるのが。……でも、それ以上に怖かったのは、誰にも触れられないことだった」
その言葉に、アキトはもう何も言わなかった。
ただ、ルイの手を握る力が、ほんのわずか強くなる。
そして、ルイが静かに顔を上げた。
仮面を外したアキトの素顔が、目の前にある。あまりにも近くて、まぶしくて、見ていられないほどだった。
「……なあ、アキト」
「うん」
「お前のことを“好き”って、言葉にしてもいい?」
その問いは、まるで祈りのようだった。
アキトは頷く代わりに、ルイの頬に手を添えた。
そして、声を持たずに唇を動かす。
「君だけに、言ってほしい」
ルイの喉が小さく鳴った。
言葉にするより先に、体が動いた。
──唇が、重なる。
ゆっくりと、確かに。
それは、悲しみでも執着でもない。“赦し”のキスだった。
◆ ◆ ◆
──時が、止まったようだった。
キスは深くはなかった。けれど、濃かった。
触れるだけなのに、すべてが伝わる気がした。怒りも、哀しみも、悔しさも、愛しさも。
言葉では伝えられなかった思いが、唇の温度に染み込んでいく。
アキトの指が、そっとルイの髪を梳く。
ルイは、その手を逃がさなかった。仮面のない素顔と向き合うのが怖くなくなっていた。
「もういい」と、誰かに言ってほしかった。それが、自分自身でもかまわないと、今なら思える。
「……キスだけじゃ、足りないな」
ルイがそう呟くと、アキトは小さく笑った。
「でも、十分だったよ。今の君からもらえたなら」
「……ずるいな、お前。いつも、先に赦してくる」
「だって、君は自分を赦すのがいちばん下手だから」
ルイは、息を吐いた。
ようやく胸の奥で、長い時間溜まっていた痛みが、音もなくほどけていくのを感じていた。
「アキト」
「ああ」
「俺、お前のことを、たぶん……ずっと怖がってた」
「知ってる」
「でも、もう大丈夫みたいだ」
「……それが聞けてよかった」
二人の間を、しばしの静寂が包む。
夜の空気が、肌を撫でていく。けれどその寒さに、もう心は震えなかった。
ルイは、ゆっくりとアキトの胸元に額を預ける。
その体温を感じながら、囁いた。
「ありがとう、俺を見ててくれて」
「……まだ見てるよ。これからも」
ルイはそっと目を閉じた。
このキスで、ようやく過去の痛みに「終わり」を告げることができた気がした。
だけど、それは終わりじゃない。
これは、始まりだ。新しいルイとして、自由を選ぶ未来への。
──だからこそ、このキスは“最後”にする。
“言葉”はいらない。もう、見つめ合うだけで伝わるから。
そして夜が、やさしく幕を下ろす。
静かな決意とともに。
ともだちにシェアしよう!

