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 第38話 檻の外で、手を繋ごう

 新しい朝は、静かに、でも確かに始まった。  厨房に射す光は、昨日までとは違って見えた。  空気が澄んでいる。壁に差し込む光が、まるで白い薔薇の花弁のように揺れている。  ルイは、エプロンの紐を結びながら、しばらくその光を見つめていた。  過去の闇が完全に消えたわけじゃない。けれど、今日の光はもう“囚われた人間”の背中を照らすものじゃない。  ──解かれた者の朝だ。 「ルイ、準備できた?」  マサキの声が響く。  カウンターの向こうで、シオンも歌の準備をしていた。  開店前なのに、誰も焦っていない。空気はゆるやかに流れ、全員が、互いの“居場所”を信じていた。  看板はすでに付け替えられていた。  Rouge et Blanc(赤と白)──赦しの色と、情熱の色。  それはこの店が、そしてルイが歩いてきたすべての“答え”のように思えた。 「……いこうか」  ルイは厨房の扉を開く。  その手には、もう迷いがない。  扉の外。そこにアキトが立っていた。  仮面はすでに、胸元に下ろされている。  今日は、顔を隠さない。 「開店祝いに……ちょっと早起きしてみた」 「……似合わないな」  そう言ったルイの口元は、少しだけ緩んでいた。  アキトは無言で、手を差し出す。  それは、所有でも命令でもない。  ただ、“一緒に立つ”という意思の手。  ルイは、その手を、ためらわずに取った。 「……行こう。俺たちの朝が始まる」  手と手が、しっかりと繋がれた。  それは、檻の外で初めて交わされた、本当の握手だった。  ◆  ◆  ◆  朝の空気は冷たいが、その手のぬくもりは確かだった。  ルイはアキトと肩を並べ、店の前に立つ。  開店まであと10分。すでに扉の外には、数人の客が並んでいた。  中には懐かしい顔も、初めての若いカップルもいる。  誰かの過去を知っていても、知らなくても──ここではただ「おいしいもの」を食べに来た人たちだ。 「……怖くない?」  ふいに、アキトが小声で尋ねた。  ルイは少し考えてから、首を横に振る。 「怖くないよ。あの頃の俺だったら、きっと……逃げてたけど」 「今の君は?」 「今は──もう、檻の外にいる」  言いながら、どこか不思議な気持ちだった。  ずっと手放せなかった“怒り”も、“復讐心”も、今はどこか遠くのものに感じられる。  まるで、役目を終えた古いコートのように、静かに脱ぎ捨てられたようだった。  カウントダウンが、胸の中で始まる。  あと五分。あと三分。あと── 「ルイ!」  店内からシオンの声が飛ぶ。 「時計、止まってる! オープン時刻すぎてる!」  ルイは一瞬驚いて、それから苦笑した。  腕時計を見れば、確かに針は動いていない。 「……そうか。止まってたのか」 「それ、何年も前の傷じゃなかった?」アキトが目を細める。 「うん。でも……それももう、今日で終わりだな」  ルイは、時計を外し、そっとポケットにしまった。  代わりに、スマホの時計で開店時間を確認する。  ちょうど、午前十一時。 「じゃあ、開けるよ」  ルイは扉に手をかけた。  それは、過去を閉じる扉ではなく──未来を迎えるための入口だった。  ◆  ◆  ◆  厨房に戻ると、ルイは少しだけ背伸びをした。  新しく取り付けられた換気扇の音が、どこか心地よい。  かつて火災のあったこの場所が、今では「始まりの場所」に変わっているのが不思議だった。  「シオン、オーダー入ったら言って」  「はーい。って言うまでもなく、もうバンバン来てるよ」  ホールの喧騒と笑い声が、遠くから伝わってくる。  赤と白の店は、名前通り、色彩も音も混ざり合っていた。  アキトがカウンター越しにグラスを並べる。  その横顔をちらと見るだけで、胸の奥がすっと静まった。  (俺は、たぶん──)  再び包丁を握る。  焦げ目をつけた肉の表面、弾ける油の音。  自分の手で作った料理が、今、誰かの心に届く。  それが、恐ろしくもあり、どこまでも優しかった。  「ルイ。新しいスタッフたち、かなり頑張ってるよ」  マサキが後ろから声をかける。  「お前の背中、ちゃんと見てる。だから、お前も──自分のこと、もっと信じてやれ」  ルイは、短く「うん」と答えた。  そして、フライパンを煽る手に、少しだけ力を込めた。  料理の香りが立ち上る。  それは、彼が今生きている証そのものだった。  ◆  ◆  ◆  深夜、営業を終えた店内には、穏やかな余熱と余韻だけが残っていた。  ルイは最後のグラスを片づけながら、ふとホールを見渡した。  客のいない空間が、なぜか今日に限って、温かく感じる。  「……ようやく、ここまで来たんだな」  誰に言うでもなくつぶやくと、背後から気配がした。  「終わったようだね」  振り返れば、アキトが片手にワインを持って立っていた。  仮面はもう外され、手にぶらさがっている。  その素顔はまだどこか脆く、それでいて、どこまでも真っ直ぐだった。  「君が笑ってるの、初めて見た気がするよ」  「笑ってない」  「そう? なら、表情筋が裏切ったのかな」  ルイは、肩をすくめて微笑んだ。  その笑みが、自分でも驚くほど自然だった。  「アキト。……俺さ、今なら言えるよ」  アキトが首を傾けた。  「俺は、ようやく“自分の人生”を選べた気がする。  誰かの期待でも、誰かの所有でもなくて──“俺自身”の手で、俺の道を開いたんだって」  アキトはグラスを軽く掲げた。  「その選択に、乾杯」  ルイも、隣に置かれていた水のグラスを持ち上げる。  ──乾杯の音は、ほとんど響かなかった。  でも、その静けさが、すべてを語っていた。  「これからも、檻の外で生きていけるかな」  「大丈夫。君はもう、自由だよ」

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