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第37話 君の隣が、世界の中心だった
朝の光が、薄く差し込むカーテンを揺らしていた。
ルイは目を覚まし、見慣れた天井を眺めた。
隣には、静かな寝息。
アキトの寝顔は、仮面を脱いだまま、どこか無防備に見えた。
(こういう朝が、来るとは思ってなかった)
仮面越しでしか見なかった彼の素顔。
今はこうして、同じ部屋の温度を共有している。
それだけで、不思議なくらい心が落ち着いていた。
アキトの髪が、寝返りとともに額に流れる。
ルイはそっと手を伸ばして、それを払った。
指先が触れた肌の温度に、微かな安堵が滲む。
──自分は、もう誰かに触れるのを怖がっていない。
それが、たったひとつの“変化”だった。
そっとベッドを抜け出し、キッチンへ向かう。
小鍋に湯を沸かし、二人分の紅茶を淹れる。
ほんの少しのミルクと、蜂蜜をひと匙。
静かな朝だった。
戦いも、過去の亡霊も、今だけはどこにもいない。
マグカップをふたつ、トレイに乗せて戻る。
ベッドのアキトが、ゆっくりと目を覚ました。
「……おはよう」
低く掠れた声に、ルイは微笑んで差し出す。
「起きたばかりには、少し甘め」
アキトは受け取ると、目を細めて一口すする。
「君に起こされる朝、……悪くない」
その言葉に、ルイは肩の力が抜けたように笑った。
たったこれだけのやりとりが、幸せの証明だった。
ただ“隣にいるだけ”で、世界はちゃんと回る。
そう思えたことが、何よりも──嬉しかった。
◆ ◆ ◆
「……今日は、店の買い出しに付き合って」
ルイがふと口にすると、アキトは少しだけ目を見開いた。
「君が“誰かに頼る”なんて、珍しい」
「……文句あるなら、やめとくけど?」
「ないよ。とても、ない」
そのやりとりも、自然に笑いへと変わっていった。
朝食を済ませて、ふたりは並んでアパートの外へ出た。
街は夏の終わりの匂いがしていた。
ビニール袋を抱えた親子、ベビーカーの赤子の声、商店街の飾り。
それら全てが、当たり前の幸せの景色だった。
アキトは歩きながら、ふとポケットに手を入れた。
取り出したのは、折れた鍵のパーツだった。
「……これは?」
「君が昔、落とした店のスペアキー。壊れたままだけど──」
「なんとなく、捨てられなかった」
ルイは言葉をなくした。
そんな小さなものが、こんなに重い記憶を抱えているとは思っていなかった。
「この鍵が壊れた日、君は一度、檻の中に戻った」
「でも、今日はもう……必要ないよね」
アキトは小さく笑いながら、それをゴミ箱に投げ入れた。
金属の音が、軽く響いたあと──静かに消えた。
「今の君は、もうどこにも閉じ込められていない」
それは、誰よりもアキトが言うにふさわしい言葉だった。
ルイは無言で、彼の手を取った。
歩幅を合わせて、肩を並べる。
その距離のなかに、確かな“選択”があった。
誰でもなく、君といるこの時間を選んだ。
──それだけで、今の世界は完全だった。
◆ ◆ ◆
「このカート、重くない?」
買い物帰り、アキトが押すカートは野菜とワインでぎゅうぎゅうだった。
「平気。料理する君を思えば、これくらい」
「何その意味不明な理屈」
笑い合いながら、ゆるやかな坂道を登る。
途中、アイスを手にした子供たちがすれ違い、犬を連れた老婦人が笑顔で会釈していく。
不思議だった。
この街の何気ない風景の中に、ちゃんと“自分たち”が存在している。
それは、かつての屋敷にはなかった実感だった。
あそこでは、常に他人の顔色を読んで、正解だけを口にしていた。
選んではいけない選択肢しか、並んでいなかった。
今は違う。
アキトがいる。
この街がある。
何より、自分で選んだ場所に、自分の意志で立っている。
信じられる“誰か”と、信じてもらえる“自分”がいる。
「なあ……」
ルイは、足を止めてアキトを見上げた。
「……俺、もう怖くないかもしれない」
アキトは一瞬だけ驚いたように眉を上げたが、すぐに頬をゆるめた。
「うん。君、今……ちゃんと“今”を歩いてる顔してる」
「そう見える?」
「見えるよ」
言葉は短いのに、妙に安心できる響きがあった。
ルイはふと、カートの持ち手に自分の手を重ねた。
するとアキトは、何も言わず、その手をぎゅっと握り返してくれた。
その瞬間、すべてが「これでいい」と思えた。
選ばれなくてもいい。
選び続ければいい。自分の手で、自分の“となり”を。
◆ ◆ ◆
夜、店の営業が終わる頃。
ルイはカウンターに並べた二皿のプレートを見つめていた。
チキンコンフィに白ワインソース、それに春キャベツのマリネ。
「……なんでか、今日は“白”を使いたかったんだよね」
厨房の隅でアキトが上着を脱いでいる。
仮面は外されたまま。
もう彼の“素顔”に、ルイは慣れつつあった。
「白は、始まりの色だ。君が黒から抜けた証拠でもある」
「それ、なんか仰々しくて笑えるな」
そう言いながら、皿を一つスライドさせて差し出す。
アキトはそれを受け取り、黙って一口運んだ。
そして、ゆっくり目を閉じる。
「……美味しい。すごく静かな味がする」
「静か?」
「うん。“戦ってない”味。君自身が落ち着いてるから、そうなるんだろう」
思わず、ルイは小さく息を吐いた。
こんな風に自分を味で言い当てられる感覚は、少し恥ずかしくて、でもどこか誇らしかった。
「俺……こうやって生きていきたいよ」
「誰かに勝つためでも、見返すためでもなく──隣で、“うまい”って言ってくれる人のために」
アキトはうなずいた。
「なら、僕はその最初の客でいさせてくれ」
「君が何を作っても、最初の一口は僕が食べる」
ルイは、照れ隠しのように皿をかすかにずらした。
「毎回、ちゃんと金払えよな」
「もちろん。世界一の常連になるから」
二人の笑い声が、静かな店内にふわりと溶けていった。
誰かを守るためでもなく、許すためでもない。
ただ、隣にいるというだけで、今日という日が“完結”する。
その幸せの意味を、ルイは少しずつ理解し始めていた。
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