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 第36話 花が咲くには、雨がいる

 朝の光が、まだ白んでいる。  静かな厨房に、鍋の音がぽつりと響いた。  「もう起きてるのかと思った」  声をかけてきたのは、マサキだった。  タオルを肩にかけ、髪は濡れたまま。寝ぐせもそのままだった。  ルイは振り向かず、コンロの火加減を確かめる。  「新しいソースの試作。焦がしたくなかっただけ」  「……ああ。大事な日だもんな」  マサキは無造作に椅子に座り、湯気の立つ鍋を見つめる。  今日は、“Rouge et Blanc”のプレリニューアル初日。  赤と白──対立でも、融合でもない。ふたつの色が交わる意味を込めて、ルイが名付けた。  厨房の壁には、新しいメニューの案が貼られている。  真神家から受け継いだ伝統的な皿と、路地裏で学んだ独自のアレンジ。  どちらかだけでは成立しない、ルイらしい料理。  「……変わったな、お前」  マサキがつぶやいた。  「いや、変わったっていうより、“戻った”のかもな。昔の、料理に夢中だった頃の顔だよ」  ルイは、ほんの少しだけ、目を伏せた。  夢中になれるものが、また目の前にある。  それは、誰かを倒すためでも、認めさせるためでもない──自分の手で生きるためだ。  「ありがとな、マサキ」  「……どうした急に。似合わねーこと言うな」  ふたりの間に笑いが落ちる。  それは、ほんのひとときの静けさ。  けれど、確かに“嵐の後”に訪れる、優しい雨音のようだった。  ◆  ◆  ◆  午後、準備が整った店内に、一人ずつスタッフたちが集まり始めた。  窓を拭く手、カトラリーを並べる手、スピーカーのコードをつなぐ手。  それぞれの動きが、まるで音楽のように空間を調えていく。  「ルイ、やっぱこのロゴ、かっこいいね」  看板を取りつけていたユズが言った。  “Rouge et Blanc”──その文字を囲むように描かれた赤と白の薔薇の図案。  デザインしたのはシオンだった。  「ありがとう。……本当は、これ最初から使いたかったんだけどな」  ルイが言うと、シオンは少しだけ微笑んだ。  「でも、そのときのルイは“白”しかなかった。今は……“赤”も取り戻したから、でしょ?」  その言葉に、ルイは答えず、ただうなずく。  どちらも自分の一部だと、やっと認められた気がした。  「シオン。あのとき……ありがとう」  「何の話?」  「……あの夜、答えを返せなかったのに、ここにいてくれてること」  しばらく沈黙が落ちる。けれど、シオンの表情はやさしかった。  「“答え”がほしかったわけじゃない。ただ、あなたの音が、ここにあればいいの」  ルイの中で、何かが静かにほどけた。  過去は過ぎ去ったわけじゃない。でも、もう縛られてはいない。  そのとき、マサキが厨房からひょっこり顔を出した。  「開店前に、一発あいさつしとけ。今日はルイが主役だろ?」  スタッフたちが集まる中、ルイは一歩前へ出た。  言葉は決まっていなかった。ただ、胸にあった“願い”を込めて言う。  「……今日からここが、俺たちの居場所だ」  その言葉に、誰かが拍手を送った。  まるで雨上がりの光のように、店内にやわらかな空気が流れた。  ◆  ◆  ◆  昼過ぎ。  新生“Rouge et Blanc”の開店を祝う最初の客たちが、ちらほらと姿を見せ始めていた。  地元の常連。SNSで話題を見た学生。偶然通りかかった老夫婦──  ルイたちは、丁寧に、誠実に、料理と接客を重ねていく。  「前の店より……味に“深み”が出た気がする」  そう呟いた初老の女性の一言に、ルイは小さく息を詰めた。  深み──それは、痛みと悔いを抱えた日々の結晶だった。  厨房でソースを煮詰めながら、ルイはふと、父の言葉を思い出していた。  「料理は“記憶”を混ぜるものだ。だから誤魔化せない」  ──その通りだ、と今なら思える。  傷も、涙も、すべてが皿の中に溶け込んでいる。  そのとき、店の入り口が、重たく開いた。  「……予約してないけど、いいか?」  その声に、店内が一瞬だけ静まり返った。  立っていたのは──ナオトだった。  以前のようなスーツではなく、ラフなシャツとジーンズ。  だが、その佇まいは変わらず“真神家の人間”のそれだった。  ルイは一歩も動かなかった。  見つめ合う視線の奥で、記憶と現在が交錯する。  「……勝手にどうぞ。ただし、他のお客様と同じ扱いです」  それは“赦し”ではない。けれど、“拒絶”でもなかった。  ナオトは何も言わず、空いていたカウンター席に座った。  ──嵐は、あまりにも静かに、店の中へ入り込んできた。  ◆  ◆  ◆  厨房のカウンター越しに、ナオトの姿が見える。  客として座る彼に、ルイは黙って水を出した。  何も言わず、ナオトはグラスを受け取る。  「……注文は?」  「ルイが、一番“自信ある料理”をくれ」  その言葉に、ルイの眉が微かに動いた。  勝負ではない。挑発でもない。  ──これは、ナオトからの“問い”だ。  数分後、皿に盛られた一品が、そっと置かれる。  仔牛のロースト。ルイの得意料理であり、かつて父に初めて褒められた一皿。  「……懐かしいな」  ナオトが呟く。  ルイは返事をしない。  ただ、黙って皿の向こうに立ち続ける。  ナオトはナイフを入れ、口へ運んだ。  噛みしめた瞬間──表情が、わずかに揺れる。  記憶と味覚が、静かに交差していた。  「……うまい。……お前の料理は、もう“家”のものじゃないんだな」  その一言に、ルイはやっと言葉を返す。  「当たり前だ。“俺の手”で作ったんだ。……誰のものにも、もうしない」  ナオトはゆっくりとうなずいた。  負けた顔ではなかった。だが、何かを受け入れる顔だった。  「……そろそろ、“雨”も止むころかもな」  ルイは、わずかに目を伏せる。  この皿を作るまでに、どれだけの雨が降ったか──誰より自分が知っている。  「それでも、咲いたよ」  ナオトはそれ以上、何も言わなかった。  ただ、最後のひと口を静かに嚙みしめた。

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