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 第35話 鏡よ、真実を映せ

 朝の光が、鏡に反射して部屋の壁をかすかに照らしていた。  ルイは、洗面台の前でシャツのボタンをひとつずつ留めながら、自分の顔を見つめる。  寝起きの髪、薄く残る赤い痕。どれも「誰かと夜を過ごした証」だ。  だけど──鏡に映るその顔は、どこか違和感を抱えたままだった。  (これは、“誰の顔”なんだ?)  あの夜、ルイはたしかにアキトに触れた。  身体を預けた。心の壁を、少しだけ緩めた。  でも……。  (“仮面”を外していたのは、俺だけじゃなかったのか?)  (じゃあ……俺が触れたのは、本当に“アキト”だったのか?)  疑念と後悔がないまぜになって、喉の奥で渦を巻いていた。  背後から、ゆっくりと扉が開く音がする。  アキトだった。黒のシャツ、整えられた髪。仮面はまだ手にしている。  「おはよう、ルイ」  ルイは鏡越しに、彼の姿を捉えた。  仮面を手にしたままのアキトが、ルイの後ろに立つ。  「……それ、今日もつけるの?」  問いに、アキトは静かに首を振った。  「今日は、いらない気がする」  その返事に、なぜか胸がざわめく。  アキトがそっと鏡の横に立ち、自分の姿を鏡に映す。  二人分の“顔”が並ぶ鏡像。  「ねえ、ルイ」  「……なに」  「君が好きになったのは……この“仮面の僕”じゃなくて、本当の僕だって、信じてもいい?」  ◆  ◆  ◆  ルイは答えなかった。  鏡越しの視線が、アキトの瞳を探す。だが仮面がないのに、そこには“表情”がなかった。  「……わかんないよ、そんなの」  思わず漏れた言葉は、少しだけ苦さを帯びていた。  「君が本当の“自分”でいてくれた夜なんて、一晩くらいだ。なのに、俺に“信じろ”って言うのかよ」  アキトは沈黙したまま、視線だけをルイに向けていた。  答えを急かさず、否定もしない。ただ受け止めようとしていた。  「……俺さ、自分の“目”を信じられないんだ」  それは、言い訳でも攻撃でもなかった。  どこまでも正直で、どこまでも痛々しい、ルイの心の奥底だった。  「ナオトの言葉も、父の背中も、シオンの告白も……“全部”俺に見えてたのに、ちゃんと見てなかった。見ないようにしてた」  声が震える。  「だから……アキト、お前の素顔を見ても、“信じていい”って自信がないんだよ」  目の奥が、じわりと滲んだ。  「信じたくて、怖くて……それでも、心が、ずっとお前を選びたがってる」  ようやく吐き出した言葉に、アキトのまぶたがかすかに揺れた。  沈黙のなかで、彼の手がそっと鏡の前に差し出される。  「じゃあ、試してみようか。仮面をつける前の“僕”を、もう一度見て」  ルイが振り返ると、アキトは静かに、自分の頬を指先で撫でた。  その手が震えているのは、恐れなのか──それとも希望なのか。  ◆  ◆  ◆  仮面は、もうそこにはなかった。  アキトの顔が、照明の反射に淡く照らされていた。  鏡越しに見ていた“仮面”の代わりに、今、そこにいるのは──  恐れと緊張をかくしきれない、ひとりの“人間”だった。  ルイは、思わず息を呑んだ。  完璧に整った造形ではない。笑顔が得意なわけでもない。  それでもその顔は、いくつもの“傷”を通ってここまで来た証だった。  「……ずっと、見ないふりしてたんだな」  呟いた声に、アキトは目を伏せる。  「怖かったんだよ、俺。  君の仮面が落ちたら──その下から、“愛されたくて震えてる誰か”が出てきそうで……」  アキトの肩がわずかに震えた。  「でも今なら……わかる気がする。  俺が“好きだった”のは、仮面をつけたお前じゃなくて、  ──その奥に、閉じ込められてた、お前の“弱さ”だよ」  その言葉に、アキトの視線がぴくりと動いた。  まるで、誰にも触れられたことのない場所を、優しく掬い上げられたように。  ルイは、そっと手を伸ばした。  鏡に映るアキトではなく、目の前のアキトへ。  指先が、彼の頬に触れる。  「綺麗じゃなくてもいい。傷だらけでもいい。……それが“お前”なら、それでいい」  仮面がないからこそ、アキトのまぶたが熱く濡れていくのが、よくわかった。  ルイの手を、彼の手がそっと包んだ。  ふたりの影が、鏡の中で重なっていた。  もう、どちらがどちらの輪郭か──わからなかった。  ◆  ◆  ◆  アキトの頬を、ルイの指がそっと撫でた。  指先に触れた涙は、仮面よりもずっと重くて──ずっとあたたかかった。  「ねえ、ルイ」  アキトの声は、今までに聞いたことのないほど柔らかかった。  まるで、何かをようやく手放せた人間の声。  「君は、俺を“赦す”の?」  問いは、どこか哀しみを孕んでいた。  その意味を、ルイは知っていた。  赦されることは、裁かれるよりも、時にずっと残酷だ。  ルイは、静かに首を横に振った。  「違う。赦すんじゃない。……ただ、受け取るだけだよ」  「お前が、俺を見てくれたみたいに。……俺も、お前を見たいだけだ」  その言葉に、アキトの瞳がゆっくりと閉じた。  ふたりの距離が、あと少し、縮まる。  呼吸が重なる。唇が、重なる。  ──鏡の中に映ったふたりが、ぴたりと重なる瞬間だった。  ルイの胸の奥で、何かが静かにほどけていく。  過去でもなく、復讐でもなく、義務でもない感情が──ようやく、そこにあった。  (これは、“卒業”なんだ)  憎しみの檻から、愛されることへの恐れから、  そして、自分自身がつくった“鎖”から。  ようやく、自由になれる。  ゆっくりと唇が離れたとき、アキトは目を開けて、少しだけ笑った。  「……ありがとう、ルイ。俺、やっと、自分を“嫌いじゃなくてもいい”って思えた」  それは、誰かに赦された人間だけが持つ、静かな誇りのようだった。  ルイは何も言わなかった。  ただ、その手を離さずにいた。  鏡の中のふたりが、重なったまま──静かに、未来を見つめていた。

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