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 第34話 僕らの、最初で最後の夜

 夜の雨音が、窓を静かに叩いていた。  ルイはキッチンの照明を落とし、間接照明だけが空間を柔らかく照らしている。  営業は終わった。スタッフも帰した。今日は──“ただの夜”じゃなかった。  「これ、赤ワインに合うって言ってたよな」  ルイはワゴンに乗せた前菜を、そっとアキトの前に差し出した。  グラスの中のルビー色が、仄かな光をたたえている。  「僕の味の記憶、よく憶えてたね」  仮面を外したアキトは、微笑む代わりにワインを口に含んだ。  彼の顔をはっきりと見たまま、ルイは立ったまま、ただ黙っていた。  「どうして、今日は……来たんだよ」  そう尋ねる声には、怒りでも戸惑いでもなく、どこか諦めに似た温度があった。  アキトはグラスを置いて、静かに言う。  「君が、誰も選ばなかった夜に──“俺”を、選べる可能性があったから」  「だから、ここにいる」  ルイの目が揺れた。  逃げ場のない言葉。照らされる真実。  「選ぶ」──その言葉が、こんなに重たく響いた夜はなかった。  「……もし、俺が何も返せなかったら?」  「それでも、そばにいるよ」  「自分が選ばれないかもしれないのに?」  「君が君である限り、僕の選択は変わらない」  ルイは、目を伏せた。  “自分を誰かに渡す”ことの怖さは、愛されることよりずっと深く胸を抉る。  でも今、その恐れを超えて──この人に“触れたい”と思ってしまった。  (俺は、もう……)  窓の外、雨脚が少しずつ弱まっていく。  ◆  ◆  ◆  アキトは立ち上がった。  グラスの音が静かにテーブルに戻される。  その動作に、妙な緊張が走った。  「……君が選ばないなら、それでもいい」  「でも、俺は……君の“最初で最後”になりたかった」  その言葉は、まるで懇願にも似ていた。  仮面を外したアキトの素顔は、いつもよりずっと無防備で、若かった。  「最初って……何の?」  ルイの声は、わずかに震えていた。  まるで、答えを知っているのに聞き返したくなるような声だった。  アキトは言った。  「心を預けること。欲しいと願うこと。……“触れる”こと」  その言葉に、ルイは呼吸を止めた。  ほんの数秒前まで、この空間には距離があった。けれど今は──  ルイは一歩踏み出す。  触れるでもなく、拒むでもなく。ただ、“立った”。  「……本当に、いいのか」  「何が?」  「俺は、まだ“全部”を愛せるわけじゃない。優しくもないし……不安定だ」  アキトは、答えるように首を振った。  「愛は、“完成形”じゃなくて、“選び続けること”だよ」  「それを、俺は君とやりたかった」  沈黙が落ちる。  けれど、その沈黙の中に、ルイの胸の奥で何かが“ほどける”音がした。  (この人は、俺を閉じ込めようとしてるんじゃない。俺の“檻”に手を差し伸べてる)  ルイは目を伏せ、そっと息を吸い込んだ。  その空気は、驚くほど柔らかく、優しかった。  ◆  ◆  ◆  ベッドルームの明かりは落とされ、薄く灯ったランプだけが、ふたりの輪郭を浮かび上がらせていた。  影が、静かに重なる。  ルイはゆっくりとシャツのボタンに指をかけた。  けれど、途中で手が止まる。  (これは“愛し方”じゃないかもしれない。……でも、“触れたさ”は本物だ)  そんな迷いが、肌と肌の間にまだ残っていた。  アキトはルイの手をそっと止めた。  「自分で脱がなくていい。俺が、君の“恐れ”ごと引き受けたいから」  それは、支配ではなかった。  所有でもなかった。  ただ、たった一晩でも「同じ夜にいたい」と願う人間の声だった。  指先がゆっくりとルイの肩に触れ、震えを感じた瞬間──  アキトの唇が、そっと額に触れた。  「君しかいなかったよ、ルイ」  その囁きが、胸に落ちていく。  シャツが滑り落ち、体温と体温が溶け合っていく中、  ルイは初めて、自分の“檻”の鍵が内側にあることに気づいた。  誰かに開けてほしかったんじゃない。  ただ、「自分の手で開けてもいい」と許せる日を待っていたのだ。  そして今──  アキトの手が、その“許可”の証明になった。  触れ合いながら、ルイのまぶたがそっと閉じる。  (もう、過去に抱かれなくてもいい)  今だけは、自分を“欲しい”と望んでくれるこの人と──  同じ夢の中に、落ちていきたかった。  ◆  ◆  ◆  夜が静かに明けていく。  カーテンの隙間から、淡い朝の光が差し込んでいた。灰色とも銀色ともつかない、眠りを邪魔しない色。  シーツの中、ルイはアキトの腕の中でまどろむように目を覚ました。  まるで、長い夢の終わりに辿り着いたような静けさだった。  「……起きてる?」  囁くような問いに、アキトは小さく「ん」とだけ返す。仮面は外されている。  素顔のまま、アキトはルイの髪に指を通した。  「君の寝顔、すごく子どもみたいだったよ」  「……うるさい。そんなの覚えてない」  小さな笑いが、ふたりの間に落ちた。  触れ合う指先には、もう迷いも怯えもない。ただ、温度だけが残っていた。  「これが……最後でもいい」  ルイはぽつりとつぶやく。  「どうして?」  「“最初で最後”って、あんたが言ったんだろ。俺たちは、そういう場所で出会ったんだよ」  「復讐の途中で、余計な感情を持った……運命の歪みみたいなもの」  アキトは答えず、代わりに額をルイの額にそっと当てた。  「なら、この歪みを、選ぼう。間違いでも、幻でもいい。俺は君の“今”を信じる」  それは、約束ではなかった。  未来を担保する希望でもない。  ただ、「いま、愛している」という、圧倒的な“現在”だった。  ベッドの外では、街が少しずつ目覚め始めていた。  店のある路地に差し込む朝の気配。  ルイはそっと目を閉じ、静かに呟いた。  「ありがとう。……あんたが、あんただから、よかった」

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