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 第33話 君だけが、檻を開ける鍵

 深夜。閉店後の店内は、音が吸い込まれるように静かだった。  厨房の照明だけがぼんやり灯り、ルイは一人でまな板を拭いていた。  水の音、布巾の擦れる音──それだけが空間を満たす。  だが、内側のざわめきは止まらなかった。  ナオトと向き合ったあと、感情の底に残ったのは「怒り」でも「許し」でもない。  それは、“空白”だった。  (赦したいわけじゃない。ただ……憎むだけじゃ、もう足りない)  ふと、背後から気配がした。  アキトだった。  仮面を外していた。夜の顔だ。誰にも見せない、素のアキト。  「……来たんだ」  「君がひとりになるときは、大体、世界と戦ってるから」  アキトはそう言って、静かに厨房の隅に腰を下ろす。  「ナオトと、話した?」  「……ああ。でも、何も終わらなかった」  「逆に、自分の“弱さ”ばかり浮き彫りになった気がしてる」  ルイの言葉に、アキトは小さく頷いた。  「弱さは、“鍵”だよ。檻を開けるための。  強さは自分を守るためにあるけど、弱さは誰かと繋がるためにある」  その言葉に、ルイの指が止まった。  「……そう思うか?」  「思うよ。君はまだ、自分の檻に鍵をかけたまま中にいる」  「そして、鍵を開けるのは……君自身だけなんだ」  ルイはゆっくりと視線を上げた。  その視線の先には、仮面のないアキトの顔。  夜の光に溶けるような、その表情は、どこまでも静かで、やさしかった。  ◆  ◆  ◆  アキトの言葉は、まるでずっと前からルイの“檻”を知っていたかのようだった。  いや、知っていたのだろう。誰よりも近くで、見ていたから。  「俺の檻は、外から誰かが閉じたものだと思ってた」  「でも違った。出るのが怖くて、自分で鍵をかけてた……」  そう言いながら、ルイは厨房の中央に立ち尽くしたまま、自分の両手を見下ろす。  火傷の跡。切り傷。皿を守って砕いた爪。  それでもまだ、誰かを触れるのが怖い手。  「自由になるのって……怖いんだな」  「もう“誰かのせい”にできなくなるから」  アキトは立ち上がり、そっとルイの前に立った。  距離は、あと一歩。触れられそうで、触れない絶妙な位置。  「君が怖がるのは、当然だよ」  「でもね──君が檻を出たら、そこに俺が立っていられるなら、俺は……」  言葉が、ふっと途切れた。  ルイは、アキトの瞳を真正面から見つめる。  仮面を外した彼の目は、想像していたよりもずっと、脆くて優しかった。  「アキト。お前がずっと隠してきたもの……俺、ようやくわかった気がする」  「……何が?」  「“俺が自由になれるように”、わざと“悪役”を演じてくれてたんだろ?」  アキトの瞳が、かすかに揺れた。  「お前の仮面の下……あれは、俺が檻から出るための“壁”だったんだ」  しばしの沈黙のあと、アキトが微かに笑った。  その笑みには、悲しみと安堵が混ざっていた。  「……君は、やっぱり鍵を持ってたんだね」  ◆  ◆  ◆  ルイはゆっくりと手を伸ばした。  まるで目の前の“仮面”に触れれば、自分の檻も音を立てて壊れるような気がしていた。  「……外していいか?」  アキトは答えなかった。けれど、拒まなかった。  その沈黙が、許しの代わりになるとルイは知っていた。  指先が仮面の縁に触れた瞬間──微かに空気が揺れた。  仮面は、まるで自らの役割を終えたかのように、すっと外れた。  現れたのは、年齢よりも若く見える整った顔立ちと、どこか寂しげな瞳。  その顔を、ルイは初めて見た。なのに、不思議と懐かしかった。  「……嘘つきだな、お前」  「こんな顔、隠しておくなんて……ズルすぎる」  アキトはわずかに目を細め、冗談とも本気ともつかない声で答える。  「こんな顔を見せたら……君が俺を“赦して”しまう気がしてた」  ルイは黙っていた。  赦すかどうかなんて、まだ決めていない。けれど──この人が、自分の檻の鍵だったことは、確かだった。  「俺はまだ、誰のことも信じきれてない」  「でも……信じたい、とは思ってる」  その言葉に、アキトが頷いた。  「それでいいよ、ルイ」  「愛されることを、許すって──そういうことだから」  ルイは、そっと息を吐いた。  仮面を外したアキトの顔と、自分の中の“檻”が、ほんの少し重なった気がした。  「……今夜は、厨房に立たないと。試作メニュー、あるんだ」  いつものように背を向け、厨房へと歩き出すルイ。  その背中が、ほんの少しだけ軽く見えたのを、アキトは見逃さなかった。  ◆  ◆  ◆  夜の店内。  厨房からは、包丁の音と油のはじける音が、静かに流れていた。ルイは黙々と調理台に向かいながら、呼吸を整えていた。  少し前まで、ここは“逃げ場”だった。いまは──“闘う場所”になっている。  フライパンの上で、赤ワインソースが煮詰まっていく。  シオンがカウンター越しにのぞき込む。「香り、すごくいいね」  ルイは短く、「まあな」とだけ答える。  仮面のないアキトは、壁際の席に座り、ただ黙ってその様子を見守っていた。  視線のぬくもりが、ルイの背中に触れる。けれど、それが今は煩わしくなかった。  「ルイ、あのさ……」  シオンが言いかけたところで、扉が開いた。  「久しぶり」  立っていたのは、ナオトだった。  沈黙。空気が変わる。  ルイの手が止まる。フライパンの音だけが、虚しく響いた。  「予約なしで来る客が、よく言うよな」  そう言って、ルイは目も合わせずに皿を仕上げる。ナオトは、一歩だけ店内に入った。  「……会いに来た。ちゃんと、君に向き合うために」  その言葉が、ルイの胸をかすかに打った。  (向き合う? 今さら何を?)  振り返らずに、ルイは料理をナオトの前に差し出す。  「じゃあ、“客”には料理を出すよ。味でしか、伝えられないから」  アキトがゆっくりと立ち上がる。  「ルイ、これは君の“選択”だ。君が誰を許すのか、誰を拒むのか──それは、誰にも強制できない」  ナオトとルイ、テーブルを挟んで向かい合う。  まだ、何も決着はついていない。ただ──いま、始まった。

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