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第32話 君は、それでも君なのか?
真神邸に白薔薇を置いた夜から、数日が過ぎた。
ルイの告発は、拡散と沈静を繰り返しながらも、確実に社会を揺らしていた。
ニュースでは“真神グループの内紛”として扱われ、評論家たちは憶測を語り、
一部の企業はスポンサー契約の見直しを始めた。
そして──ナオトは沈黙を貫いていた。
その日。
ルイは偶然、駅前の小さな書店で彼を見かけた。
黒いコートにサングラス、帽子。
普段の威圧感は消え、まるで“ただの男”になったみたいだった。
気づけば、足が向かっていた。
通路を曲がった先、彼の背中が一冊の雑誌を手に取る。
──そこに、ルイの名前が載っていた。
「元・真神家令息、ルイ=ミナト・マカミ告発の真意とは」──そんな見出し。
ナオトは黙ってページを閉じ、本を棚に戻した。
その動きに、迷いはなかった。ただ、手の震えだけが小さく見えた。
「……そんな姿、初めて見た」
ルイの声が漏れる。
ナオトがわずかに振り返り、二人の視線が交錯する。
沈黙が、通路の隙間に落ちた。
「まだ……ここに立ててるのか?」
ナオトの声は低く、かすれていた。
「立ってるさ。あんたに潰されなかった分だけ、強くなった」
ルイは言い返す。だが、声はどこか苦く揺れていた。
◆ ◆ ◆
「……お前は、昔から強かったよ」
ナオトの呟きは、どこか自嘲に満ちていた。
けれど、それはかつてのような支配者の視線ではなかった。
ただ、ひとりの男が過去を悔いている、そんな色をしていた。
「強くなんかなかった」
ルイは即答する。
「でも、強く“あらざるを得なかった”。あんたたちが、俺にそうさせたんだ」
ナオトは黙って聞いていた。
その静けさが、かえってルイの胸をざわつかせる。
──謝罪が欲しいわけじゃなかった。
なのに、どこかで“何か”を期待している自分がいた。
「俺を切ったとき、迷いなんてなかったんだろ?」
低く問うと、ナオトは顔を少しだけ背ける。
「……迷いは、あった。けれど、“選べなかった”」
「選ばなかったんだろ」
声がわずかに揺れる。
「この手で誰かを守れるかもしれなかったのに──
それでも、“家の決定”に従った。あんたは、あの時点で“ナオト”じゃなかった。
ただの“真神家の長男”だった」
ナオトは目を閉じた。
そして静かに息を吐く。
「……そうだ。俺は、お前を裏切った。
それを正しいと思ったわけじゃない。正しくなくても、“そうしなきゃいけない”と思っただけだ」
──本音だった。
その言葉の温度が、ルイの皮膚の奥にまで染み込んでくる。
「……それでも、俺は、あんたを憎むしかなかった」
そう言いながら、心のどこかが“揺らぎ始めている”のをルイは感じていた。
◆ ◆ ◆
「じゃあ、なんで今さら……あんたは、何をしに来たんだよ」
ルイの声は怒りにも似ていたが、その裏には、はっきりとした“動揺”があった。
ナオトはしばらく口を開かなかった。
その沈黙が、ルイの胸を締めつける。
「後悔したから?」
問いが突き刺さる。
だがナオトは、それを否定しなかった。
「後悔は……してる。けれど、それだけじゃない」
「お前が、もう“あの頃のルイ”じゃなくなったと知って──俺は、たまらなく悔しかった」
その言葉に、ルイの表情が一瞬、止まる。
「俺がいない世界で、お前が誰かに支えられて、愛されて、認められて……
それを見て、“喜べなかった自分”がいた。最低だろ?」
ナオトは静かに笑った。
それは敗北を受け入れる男の笑顔だった。
「お前が自由になるってことは──俺が、お前を縛ってた証だ」
「自分が何を壊したのか、ようやくわかった。だけど……それでも、言いたかったんだ」
「……何を?」
ナオトの視線が、まっすぐルイに向けられる。
「“生きててくれて、ありがとう”って」
それは、ただの懺悔ではなかった。
ナオト自身の“救い”を、ようやく見つけた者の声だった。
ルイは、すぐに言葉を返せなかった。
喉の奥に何かが詰まったように、ただ沈黙していた。
父の死。家族の裏切り。アキトとの複雑な関係。
すべての痛みを経て、今、ナオトから放たれたその一言が──
皮肉にも、ルイの檻を揺るがせていた。
◆ ◆ ◆
「……なあ、ナオト」
ルイが静かに口を開く。
声は低かったが、どこか震えていた。
「俺をあの家から追い出したのは、お前だ」
「父さんが死んだのも、何も知らなかったわけじゃない。そうだろ?」
ナオトは頷かなかった。けれど否定も、しなかった。
それが答えだった。
「じゃあ……俺が、お前を赦したら──
それは、“過去をなかったことにする”ってことか?」
自分でも気づかぬうちに、声が上ずる。
赦したら、全てが消えてしまいそうで。
痛みも怒りも、全部、無意味だったことになるようで。
ナオトは、一歩だけルイに近づいた。
手は伸ばさなかった。ただ、同じ高さの目線で言った。
「過去は、消えない。なかったことには、できない。
だから……俺は、ずっと背負うよ。俺の中で、お前を殺した責任を」
「……そんなの、ずるいだろ」
ルイがかすれた声で呟く。
「それでも、今の君を見て、
“あのとき守れなかったものの重さ”を、やっと理解したんだ」
その言葉が、胸の奥に沈んだ。
数秒の沈黙のあと、ルイは視線を外した。
そして、小さく息をつく。
「……俺も、まだわからない。赦せるかどうか」
「でも──お前が、もう“偽らずに話すこと”を選んだなら……それだけは、受け取るよ」
わずかに口角を上げたルイの顔は、泣いても笑ってもいなかった。
けれどその目だけが、確かに“檻の鍵を探し始めた誰か”のものだった。
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