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 第31話 檻に咲いた、白い薔薇

 午前四時の光は、まだ夜の名残をまとっていた。  薄明の街に、スマホの通知音が重なる。  ──拡散された一件の告発スレッド。それは、ルイの手から発信されたものだった。  「#真神家の闇」「#血統と契約」「#不正口座の証拠」  短く、感情を込めず、ただ事実だけを並べた文章だった。  ナオトの名前も、父の名も、伏せたまま。それでも、その内容は明らかに“標的”を指していた。  「……俺は、復讐をしたいわけじゃない。ただ、黙っていたくないだけだ」  ルイはカーテンを開けた。まだ夜が支配する時間帯。  しかし、空の向こうには、ほんの僅かに白い朝が顔を覗かせていた。  手に持っていた白薔薇の花束──  市場で“なんとなく”選んだそれは、今や象徴のようだった。  清廉で、孤高で、そして……棘を隠し持つ。  ルイは歩いた。静まり返る路地、舗道に残る夜露。  真神家の邸宅は、高い鉄柵と重厚な門を持つ。けれど彼の足取りに迷いはなかった。  「……戻ってきたわけじゃない。終わらせにきたんだ」  門の前まで来たルイは、白薔薇の花束を取り出す。  そして──無言のまま、それを門越しに投げ込んだ。  バサ、と音を立てて落ちた白薔薇は、まるで何かを赦すように、しかし冷たく突きつけるように、  夜明け前の邸宅の足元に、静かに横たわった。  「これでいい。もう、俺の中に“戻る場所”はない」  夜が、ゆっくりと明けていく。  檻の中にいたはずのルイは、今やその外から──過去の家を、見下ろしていた。  ◆  ◆  ◆  午前五時。邸宅の執事棟で、ソウが静かにモニターを操作していた。  外部からの“投棄物”──白薔薇の映像と、SNSに拡散された告発ポストの画面を並べる。  「兄さん……やっぱり、やったんだね」  低く呟く声には、怒りも驚きもなかった。ただ、“納得”の温度があった。  隣に立つアイリは、唇を固く結びながら画面を睨んでいた。  「これ、どうするつもり?」  「父に報告する。けど……処理は兄さん自身にさせる」  ──“兄さん”とは、ナオトのことだ。  その頃、ナオトは会議室で報告を受けていた。  机の上には、白薔薇の花束の写真と、告発スレッドの出力紙。  「対処しろ。今すぐに。外部からの名誉毀損、すべて法的に潰せ」  重役の一人がそう叫ぶ中、ナオトは無言で紙を握りしめた。  (これは……ルイの手だ)  名は出ていない。証拠も巧妙に匿名化されている。  けれど、文章の節々に“ルイの音”があった。文体、呼吸、選ぶ言葉の癖。  ナオトにだけ、それが“彼の声”に聞こえた。  「──この件、僕が直接処理します」  ナオトの声に、一同はざわついた。  しかし彼は、誰も見ずに席を立つ。  背中に刺さる視線より、もっと重いものを抱えていた。  廊下に出ると、窓の向こうに“あの門”が見えた。  白薔薇はすでに片付けられていたが、そこに“言葉”が残っていた。  ──愛されなかったことより、嘘を選ばれたことが痛い。  思い出す。少年時代の、庭で交わした約束。  「ずっと一緒にいる」なんて、無責任な未来図。  「……許されるわけないか」  ナオトは独りごちる。自分が捨てたものの、重みを初めて手のひらで掴んだ気がした。  ◆  ◆  ◆  薄明かりの店内。営業前の時間、ルイは厨房の流し台で、静かに包丁を研いでいた。  刃の金属音が静寂に吸い込まれていく。誰もいないはずなのに、足音が近づいてくる気配があった。  「SNSがざわついてるね。……なかなか見事だったよ」  仮面の男──アキトが、厨房の入り口に立っていた。  ルイは振り向かず、手を止めず、ただ冷静に言った。  「知らない。俺は何もやってない」  「うん、“ルイ”としてはね。でも、“あの投稿者”は、よく君のことを知ってる」  にやりとも、嘲るようにも見える声色。  だが、仮面の下に宿るのは──焦りだった。  「これで、真神家は崩れるかもしれない」  「崩れるなら、それだけの価値しかなかったってことだろ」  淡々とした口調に、アキトの足音が一歩だけ近づく。  「……君は、どうするつもり?」  「最後までやるよ。中途半端な“告発ごっこ”なんて、誰のためにもならない」  アキトは、ほんのわずか息を吐いた。  「やっぱり……君は、危ういほど綺麗だ」  「お前は、俺を見張りに来たのか?」  「……君が“檻”から出てこようとしてるから、確認に来ただけさ」  それは優しさか、支配か。  ルイには、まだ見分けがつかなかった。  ただ、アキトの言葉に、ひとつだけ確信できたことがある。  ──この人は、“檻”の外から呼びかけてくる。  でも、“鍵”はくれない。自分で出てこいと言っている。  (それでも、俺は……)  ルイは包丁を研ぎ終え、刃を光にかざした。  自分の目にだけ、そこに白い薔薇が映っている気がした。  「檻を開けるのは、誰かじゃない。……俺自身だよ」  その言葉に、アキトは何も返さなかった。  ◆  ◆  ◆  その夜。  ルイは店を出て、静かに街を歩いていた。手には、ひと束の白薔薇。  向かう先は決めていた。真神家の邸宅──かつて自分が“いたことにされていない”場所。  SNSの波は加速していた。投稿には多数の拡散と共感と、時折にじむ憶測と誹謗。  それでも構わなかった。大切なのは、“始めた”という事実だった。  門の前で立ち止まると、遠くから警備員のライトが揺れているのが見えた。  「……ただ置くだけだ」  そう呟き、ルイは門扉の前に白薔薇をそっと置く。  その色は、怒りでも悲しみでもなく、ただ静かな赦しの象徴。  (恨んでいる。でも、それだけじゃ足りない。   俺はもう、“ここ”に支配されてないって、証明したい)  そう思った瞬間だった。  邸宅のバルコニー。そこに、立ち尽くすひとつの影があった。  ──ナオト。  目が合ったわけではない。けれど、確かに気配が交わった。  ルイは何も言わなかった。ただ、一歩だけ門から離れたところで立ち止まり、背筋を伸ばした。  白薔薇は、月光を浴びて鈍く光っていた。  ナオトの表情は見えない。だが、静寂の中で確かに何かが揺れていた。  (もう、あんたの“弟”じゃない。俺は、俺の名前で立つ)  そう思いながら、ルイは背を向けた。  風が吹く。門の前の薔薇が、一輪だけふわりと転がった。  それはまるで──檻の中に差し込む、一筋の光のようだった。

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