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第9話

 意図せぬ宿泊による緊張感と不安に円卓に突っ伏しているとそれを見た朧が呆れた声で「なにしてんの?」と吐き捨てた。  その声にゆっくりと上体を起こすと、目に入ったのは朧が手に麺鉢を持っている姿だった。   「蕎麦。葱しか入ってませんがって」 「オレの分だけ?」 「オレは別に食わなくていいから」 「少し食べる?」 「しゆにちゃんと食わせるようにって言われてるからしゆが食って」    円卓に置かれた麺鉢からはほかほかと湯気が立ち上り、蕎麦の上に残ってた分を刻んで入れましたって感じでネギが乗っている。  だがそれは一つだけで朧の分はと聞けば不要だと返された上、オレに用意したものだからと言われここは彼らの社なのでそれに従うことにした。  そういえば以前に食べなくても平気みたいなことを聞いたことがあった気がする。  一晩くらいならオレも我慢できるけどオレにだけ出されたってことはなにかしら理由があるんだろう。  思い出したように置かれた箸を手に取って、オレは両手を合わせてから蕎麦を食すことにした。   「美味しい」 「ダンくんの作る蕎麦は美味いよな」 「シンプルだからこそ美味い。ダシの匂いかな、食欲そそられる」    ネギ以外具がないのが幸いしている。濃いダシの香りに汁まで飲み干してしまえそうだ。  美味しい美味しいとくり返していると朧も納得したように頷いている。前に好きだって言ってたものな。   「それで朝まで持ちそうか?」 「結構茹でてくれたみたいだから十二分だよ」    一瞬シンプルという単語に引っ掛かっていたようだけど、それよりもと問われオレは首を深く縦に振る。  軽く二人前くらいはありそうだ。食べようと思えばまだ食べられるが、これだけ食べれば朝まで腹を空かすことはないと思う。  朧は「そうか」とだけ零すと風呂の様子を見てくると言ってまたこの場からいなくなった。  結局汁まで飲み干してしまったのだが、暫くして戻ってきた朧が空っぽの麺鉢を見ては「なんもない」と笑う。   「落ち着いたら風呂入って。言ってくれれば案内するから」 「洗い物くらいするよ」 「客が勝手にダンくんの持ち場に立つな」    間髪入れずに次は風呂、と言われ客とはいえなにもしないわけにはと言ったが逆に客なんだから大人しくしてろと睨まれてしまった。  ダンくんがいるなら話は変わってくるのだろうが、今夜はそうでないから素直に従っておこう。  次来る時にまたなにか持ってくればいいやと心に決めて、腹が少しこなれるのを待って風呂に入ることにした。  固形石鹸しか置かれていないことでなんとなく察せるものがあるな。  誰かの物だったら悪いので一応朧に使ってもいいのかと聞いたら「使ってもいいけど湯浴みをしっかりしろ。最低でも一度は頭から湯を被れ」と言われたので湯船にしっかりと浸かり、体だけ念入りに洗ってそれを流す時に頭からお湯を被って上がった。  大きめの手拭いで全身を拭いてから居間に戻ると朧が入れ違いで風呂に行く。    雨戸が閉まっているとはいえ社の中にいると、不思議と外の音が聞こえない。  なにかが起こっているのなら風が雨戸を揺らす音くらいしてもいいと思うのだけど。  そのせいでなにが起こっているかも不透明で、遊羅くんとダンくんがいるからと安心はしているが、出たら死ぬって言われるくらいには危険なことが起こっているのだと思うと不安が消えることはない。   「しゆ、白湯飲む?」 「ありがとう、いただくよ」    湯浴みを終えた朧が戻ってきて飲み物いるかと聞かれたので頷くと一旦踵を返し、少しして白湯を二人分持って戻ってきた。   「食事も風呂もありがとう」 「まあ、しゆは客だしその対応できるのは今はオレだけだからな」 「うん、だからやってくれてありがとう」    ふう、と息を吹きかけてから湯飲みに口をつける。  少しだけ熱いくらいの白湯は湯浴みの熱が引いた体にはじんわりと巡っていく感覚がひどく心地よかった。  食事も、風呂も。言われたからこなしていることだと朧が思っているのはわかっていたが、それにお礼を言ってはならないという道理はないと告げれば朧はいいのにと言いたげな表情を浮かべて、でも口にしても無意味と思ったのか頷いて返してくれた。   「布団敷くけど、ここでいい? ここだとオレもここに敷く。一人がいいなら客用の空き部屋あるからそっちに敷く」 「朧もここで寝るの?」 「うん。二人になにかあった時、今夜はここの方が近いから」 「なるほど。じゃあオレも……ここで」    夕食を取って、風呂に入ったらもう寝る準備だと今度はどこに寝るかと聞かれ疚しい理由なしにここで、と答える。  布団を持ってくるというので運ぶのくらい手伝うと言ったら「客人が下手に社の中を歩くな」と怒られ、敷くのだけ手伝った。  敷くスペースを作るのに円卓をずらしたので、オレは敷かれた布団の上に腰を下ろす。   「そういえばさっきなんで落ち込んでたの?」 「偶発的なお泊りばかりだなって。緊張したのと、申し訳なさと」    朧は残っていた白湯を飲み干すと少しだけ離れた場所に敷いた布団の上にオレと同じように腰を下ろしては、さっきのなんだったのと聞いてきた。  それにいつもアクシデントだからと返せば朧はふうん? と首を傾ける。   「前もそうだけど、こういうのは充にとって嬉しいことじゃないんだな」    何故首を傾げられたのかわからず、つい反対に首を傾げたら真っ直ぐ見つめられながらそう呟く朧に一瞬言葉が詰まった。  好きだって言ってるのに一緒にいたいのとは違うのかと思うのは妖も同じなのか、それともオレがなにかあると一緒にいたがったからなのかはわからないが。  頷くにしても、首を振るにしてもどちらか一方が勝るというものではないので悩ましい。   「朧といられる時間は、あればあるだけ嬉しい」    オレが言った通りに朧に伝わるだなんてことはない。それは朧が道理が違う妖だからというのもあるし、人間同士でも同じだ。  でもなるべく相違がないように伝えたくて言葉に迷うが、まず嬉しいことであるのは確かだと告げる。   「でもオレは、その時間が長ければ長いほど別れが訪れるのが怖いんだ」    その為には自分の中の深いところにある箱を少し開けなければならなくて、それを朧に見せなくてはならなくて。  なにより朧からすれば突然そんな陰った感情を見せられてもと感じるかもしれない。  だからこそ不安や緊張が勝り、言葉にする声が震える。   「しゆにも別れが辛かったことがあるのか?」    朧が言った「にも」という言葉の意味が【オレにもそう考えることがあるのか】なのか【自分も同じことがあった】なのか【他の誰かと比べている】のかは判断が付かなかったから頷くだけに留めると「そうか」とだけ返ってきた。   「あまり、楽しい話じゃないんだけど朧には聞いて欲しい。聞いてくれる?」 「しゆが話しててもオレは面倒がっても嫌がりはしないって言ったの、しゆだろ」    そういう話は聞きたくないんだって首を振られたらオレもそうだよねで終わらせるつもりだったが、不安からつい口を衝いた問いかけに朧は「さっき自分で言ったんだろ」と呆れたように言う。  それはオレにとっても楽しい話だったからであって、意味が違うよと思ったがなんとなく言い返しても無意味な気がした。  朧からすればきっとそれに大した違いはなく、「いつもの通りしゆが好きに喋ってるだけ」になるんだろう。でも今のオレにはどうしようもなく温かで優しい言葉に聞こえるのだ。  彼自身にとってなんともないことが、オレの心を溶かしていくから。だからオレは朧のことが好きなのだと思う。    溢れそうになる涙をなんとか引っ込めてオレは話し始める。    家族と呼べる人たちの中で唯一、祖父が好きだったこと。  その祖父と死別したことをずっと忘れられないこと。  そのことで両親と激しい口論となったこと。  オレの言葉をすべて否定する彼らを見限るに至り、家を出るために地元から離れた大学を選んだこと。    オレが話している途中で朧が口を挟むことはなかったが、時折頷いてくれていたから聞いているのはわかった。   「元々考えが合わなかったけど『祖父なんていない』って言われた瞬間、自分の中で張り詰めていた糸がぶつんって音を立てて切れたんだよな」    それに安堵し、一番大事なものを否定されて我慢も限界だったんだと呟けば朧は小さな声で「そうか」とだけ零す。  ただそれを言うまでに一瞬の間があったように感じたので朧を見たら彼はオレの足元をじ、と見てから顔を上げた。   「しゆにとって縁切りを決意するほどのことだったんだな」    詳しいことは言わず結構掻い摘んで話したからなにか聞かれたり、考えが違うこともあるから理解できないと言われることもあるかと思っていたらそのどちらとも遠く違っていて、オレは頷くしかできない。  寄り添っているのとは違う、理解できた事実だけを違っていないかと確認するように言う朧に両親のことを話していて冷え始めていた心がじわりじわりと熱を取り戻す。   「そう、なんだ」 「うん」    自分が自分で在るために両親を捨てることをオレ自身は正しかったと思っているが、世間一般はそうでないことくらいは理解している。  妖にとってどうかというのはわからない。否、わかったとしても朧にだけは否定されたくなかったんだ。  オレの価値観を押し付けているんだろうがでもそれを態度にも言葉にもされなかったことに、どうしようもなく感情が揺さぶられる。  震える声で朧の言葉がなにも違っていないことを伝えると返ってきたのは頷きだったが、それだけで彼に伝わっているのがわかった。   「ああ、好きだなぁ……」 「なに言ってんの、急に」    心の中で独り言ちたつもりだったが、口を衝いてしまったようで呆れられたがさっきまでの鬱々とした気分も空気もどこかへ行ってしまう。  安堵にへらり、と笑うと朧は一瞬なにか言いたそうにしていたがすぐにまあいっかと諦めたような表情になった。   「本当なら本人たちに聞くべきなんだろうけど、遊羅くんとダンくんって今なにしてるの?」    恐らく朧はあまり気にしないだろうがオレが先程までの空気でいるのが居た堪れないのでそれとなく話題を変えると、朧は「ああ」と呟いてそれこそ面倒そうに話してくれた。  それこそ「遊羅たちに聞いた方が正しいだろう」と言ってから。    オレたち人の営みが多く安心して行われる場所があるように、妖たちにもそういう場がある。以前行った闇市もそう。  ある程度の地位や力を持った者ならその二つを行き来するのに正しい道を通れるが、オレがこの社に訪れるきっかけとなった(よど)やそれに近いものはそこを通れない。  だからそういうものが妖の側に行こうと目論んで通ろうとするのがあの鳥居からこちらで、遊羅くんはそれらを掃討するのが役目。  普段は十二分に石鳥居で防げるが、自我を失ったのとか数の暴力があって愛司さんの「通す」という発言から今回は両方の可能性が高い。    淡々とした口振りから察するに、かなり掻い摘んで説明されている。  だが恐らく要点は捉えているのだろうし、今なにが起きてるかと遊羅くんとダンくんがなにをしているのかはなんとなくわかった。   「ある程度誘導できるものを敢えてここに通すから遊羅くんと愛司さんは仲良くないのかな……」    なるほどと納得しつつ、新たに湧いた疑問をぽつりと零すと朧は「うーん」と首を捻りながらもぞもぞと布団に潜り込んだ。   「立場でいえばあの人が遊羅の上司であることは確かだけど、遊羅はあの人の持つ徒党とは外れてて……。これはオレが思ってるだけだから本当は違うのかもしれないけど、本来なら【腐れ縁】とかの方が合ってるんだと思う」    朧は【立場】というものが邪魔をしているだけで、仲良くはないがだからといって悪いわけではないと教えてくれた。  朧が言葉に迷うくらい、それほど二人の関係は複雑なんだろう。  その辺の経緯はそれこそ遊羅くん本人に聞かなくちゃわからないことなんだろう。朧すら知らないことだからオレが聞いたところで教えてくれるかはわからないが。   「本来、遊羅なら一人で掃討できるけどダンくんはその手助けがしたくて社にいるんだって聞いたことがある。だから遊羅が頼りにしてるのはダンくんだけ」    遊羅くんの話になったからか、オレが最初に二人はと言ったからか朧が何故二人で掃討しているのかを話してくれる。  それに「なるほど」とだけ返したが朧の「遊羅くんが頼りにしているのはダンくんだけ」という言葉にはたくさんの意味が込められているような気がした。  オレも彼が強い力を持っているのはなんとなく理解しているが、遊羅くんがそれだけで彼を選ぶとは思えない。遊羅くんにとってダンくんは相当の特別な相手なんだろう。  出逢った順番や、付き合いの長さというものも多少はあるのかもしれないが朧だって遊羅くんにとって特別な相手だ。その意味が違うだけで。   「ああ、ダンくんの『存在意義』ってそういうことか」    そんなことをぐるぐると思案していると、ふと先程ダンくんが愛司さんに言い放った言葉を思い出した。  遊羅くんにとってもダンくんは特別だが、ダンくんにとっても遊羅くんは特別なんだ。  そうであるべきと捉えられかねないけどダンくん自身の口振りや愛司さんの反応から「そうであること」を彼本人が選んでいることなのだろう。  きっとダンくんの【芯】なのだなぁ。   「前に言ったけど二人の力は特異で特殊だから、二人がいればこの社の中によくないものが入ってくることはあり得ないから安心して休んでいいよ」    二人の関係を羨ましく思っていると、朧がオレにそう声をかけてくれる。  一瞬不思議に思ったが、オレがこの社に来た経緯がそういうものに追われてだったから朧なりに気にかけてくれたのだろう。  それとも羨んでいる顔が不安を感じているように見えたのかもしれない。   「それに朧が隣にいてくれるから。安心して眠れそう」    社の外は遊羅くんとダンくんが、中で隣に朧がいてくれることでオレは安堵に満たされていると告げれば、朧は険しい表情を浮かべてはむくりと上体を起こした。   「しゆ、ここに初めて来たとき『助けてくれた姿がカッコよかったから』って言ったけど。社を護ってるのは遊羅とダンくんで、本来オレは澱なんかと戦うための力なんてないよ」    どうしたのとオレが声をかけるより先に朧がこちらを見ながらぽつりぽつりと零す。   「そもそも最初に助けたのもダンくんだっただろ」    言われている言葉の意味はわかるが、何故そんなことを言い出したのかが理解できず返答に迷ったのがよくなかった。  続いた言葉に嫌な予感ばかりが募っていく。   「確かにあの澱を倒したのはダンくんだったけど、最初に助けてくれたのは朧だった」    慌てて首を振って、澱を倒したから好意を持ったわけじゃないと言い返したが朧はオレの真意を探るように射貫くように真っ直ぐにオレの両目を覗き込んだ。   「あの時のことは好きになったきっかけでしかなくて、朧が遊羅くんやダンくんのようでないことはオレが朧に幻滅する理由にはならない」    朧が二人の力を信頼しているのは、これまでの言葉や態度で伝わってる。それは嘘じゃないんだろう。  でも二人が特異で特殊だからこそ、そうではない朧には負い目のようなものがある。  何故突然こんな話になったのかわからなかったが、今理解できた。存在意義の話をしたからだ。  好きになったのに強さは関係ないと主張を繰り返しつつ、朧自身が負い目に思っていることで幻滅はしないと告げるも暗い瞳を見るにあまり届いてはいないようだ。   「今も朧が好きでいることに理由が必要?」    どこが好きなのかとか聞かれたら答えようはある。  でも朧が求めているのがそういうものじゃないとわかる。だがきっかけはきっかけでしかなく。  他にどうやって言えば伝わるのかなんて今のオレにはわからない。  今さっき朧の言葉に固くなった心を癒されて好きだと言葉にしたのを否定されたような気分になってつい、荒い口調で問いかけたら朧もそういう話じゃないと言いたそうだったがダメだとも言えなかったのか、ただ黙って首を振った。  不満と苛立ちを露わにした朧はオレから顔を逸らすとそのまま布団に潜り込み、オレに背を向ける。   「今朧を好きなところなら言えるよ」    それこそ今は無意味なのだろうと思いつつ、好きだと思っているのは事実でそれなら伝えることはできると向けられた背中に投げかけたが当然返事はなかった。  それでも、否……朧にもここにいるだけの理由があるだけかもしれないが、傍を離れることもなくオレに別室に行くように強く言うでもなく同じ部屋にいてくれるところにまたひとつ、オレはキミへの好きの理由を増やして。  けれど今声にするのは違うだろうと感じ、「おやすみ」と告げて布団に潜り込むと静かに部屋の明かりが消えた。

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