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序章

 白羽ユリトの手は、いつも冷たい。  それは雪に触れていたせいではなく、冬の夜がこの街に降ろす寂寥の色が、彼の指先に染みついているからだった。  街角の花屋「アトリエ・ソワレ」は、閉店の支度に静かだった。白百合の香が、薄明かりの中にほのかに揺れる。ガラス越しに映るユリトの横顔は、どこか現実から隔絶した肖像画のようだった。長い睫毛の影、透けるような頬、そして――どこにも属さない目。  「ねぇ、もう少しだけ話そうよ」  背後から伸びてきた声は、カサついた欲望の音色を帯びていた。  ユリトはふと動きを止めた。花束を包んでいた手がわずかに震える。  「あの、今日はもう……お店、閉める時間なので」  男は苦笑しながら、しかしその目だけは笑っていなかった。  「そんな冷たいこと言わないでよ。せっかく君に会いに来たんだから」  乾いた指が、ユリトの手首に触れた瞬間だった。  ――音もなく、店の扉が開いた。  冷気を孕んだ風が舞い込み、百合の香りを一瞬掻き消した。そこに現れたのは、漆黒のコートに身を包んだ男。夜そのものを引き連れてきたような存在だった。  「……騒がしいな」  男の声は低く、冷たい氷を砕くような静けさだった。  「この空間には、もっと相応しい沈黙があるはずだ」  その男の気配は、あまりに異質だった。  白百合の温室に現れた黒い斑点――けれど、それは決して汚れではなかった。むしろ、それがあることで、空間の純白はより強く際立った。黒薔薇のように。  「誰だよ、あんた……」  声を上げた常連客の男が、一歩近づこうとしたときだった。  男の足元に、レイジの視線が落ちる。  「……その手を、離せ」  小さく吐き出された言葉に、空気が緊張を孕む。  「は、離さなかったらどうするって――」  「切り落とす」  言葉は静かだった。だが、確かにそこには殺意があった。凍てついた雪の刃のような音だった。  常連客は、まるで見えない力に喉を掴まれたかのように、ユリトから手を引き、顔を引き攣らせて店を出ていった。  ドアの音が遠く閉まった後、沈黙が再び訪れる。  レイジは、ユリトに向き直った。  その瞳は、夜空の底に沈んだ星のようだった。  光を飲み込みながら、決して何も映さない。  「……怪我は?」  不意の問いかけに、ユリトは小さく首を振る。  「……いえ、大丈夫です。ありがとうございました」  レイジは一歩、近づいた。  ユリトの頬にかかった髪を、手袋越しの指でそっと払う。  その仕草は、どこか祈るように、慈しむように優しかった。  「名を」  「……白羽、ユリト」  その名を聞いた瞬間、レイジの目がかすかに揺れた。  ──まるで、遠い記憶に触れたかのように。  「……白羽、ユリト。やはり……そうか」  呟くようにそう言い、懐から一枚の名刺を取り出す。漆黒のそれには、銀色のエンボスで文字が浮かんでいた。  黒薔薇レイジ  ──黒薔薇ホールディングス代表取締役CEO  「一度、話をしに来てくれ。君に、ある“役割”を依頼したい」  ユリトは名刺を受け取ることも忘れたまま、ただ、その男の佇まいに見惚れていた。  夜の中で咲く、真っ黒な薔薇。毒を秘めた美。  翌日の午後、冬の曇天を割って一台の黒塗りリムジンが、花屋の前に音もなく停まった。  運転手の男は無言でユリトに小さな封筒を差し出した。その封の中には、一枚の紙と薔薇の花弁が一片。  《白羽ユリト様へ。16時、黒薔薇邸にて。貴方の“役割”をお渡しします。》  無地の便箋には、あの夜の声が滲んでいた。  ──まるで、招かれざる夢への案内状。  黒薔薇邸は、街の高台に位置する静かな館だった。高く積まれた塀の中に、外界の音は一切届かない。  石造りの門を抜けると、冬枯れの庭に咲き残った薔薇たちが、まるで眠るように色を湛えていた。  執事に導かれた先、ユリトは一面ガラス張りの温室へと通される。そこは冬の館に咲き残った唯一の春。百合と薔薇が溶け合うように咲き乱れ、香りが夢のように空間を包んでいた。  ガラスの椅子に腰かけていた男──黒薔薇レイジが、ふと顔を上げる。  「来たか、白羽ユリト」  その声に、ユリトの背中がかすかに震えた。  昨日の冷たい夜、その声は闇を裂いた刃だった。  今日、それは薔薇の棘のように甘く、そして危うい。  「単刀直入に言おう。──俺の婚約者を、一ヶ月だけ演じてくれ」  まるで天井から薔薇の花がひとつ、音もなく落ちたかのようだった。  ユリトは目を瞬き、聞き間違いかと思う。  「……婚約、者……ですか?」  「そう。形式的なものだ。身分証に記載されるわけでも、籍に入るわけでもない。だが、外の世界には“そう見えるように”振る舞ってもらう。理由は訊かなくていい。……ただし、報酬は約束する。──君にとっての、自由を」  温室の奥、金属のトレイに乗せられた一枚の紙。  それは契約書だった。ユリトの名前が、既に美しい筆跡で書かれている。  「……なぜ、僕なんですか?」  静かに問いかけたユリトの声は、花びらを震わせるほどに儚かった。  レイジは一瞬だけ目を伏せ、そして――かすかに笑った。  「君にしか、できない役がある。……いや、君が“君”だからだ」  「それに、これは俺にとっても──余命のようなものだ」  その言葉の意味を、ユリトはまだ知らなかった。  だが、胸の奥に棘が刺さるような痛みだけは、確かにあった。

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