2 / 5
第1幕:契約恋愛
1.仮面の同棲生活
黒薔薇邸に春は訪れない。
永久に閉ざされたガラスの城は、花々の香に満たされながらも、どこか棺のようだった。
ユリトが案内された部屋は、まるで舞台装置のようだった。
銀の燭台、透き通るレースの天蓋、床に敷かれた深紅の絨毯。そのすべてが「愛の劇」を演じるために配置されているように見えた。
暖炉には火は入っておらず、ただ古びた薪が静かに横たわっていた。
壁に掛けられた燭台には、わずかに蝋の残り香が漂っていた。
ユリトはなぜかその“燃えた痕跡”に、微かな怖れを感じた。
火は、あたたかくも美しい。けれど時に、それはすべてを焼き尽くし、跡形もなく奪ってしまうものだから。
子供のころ、家の裏庭で古い日記帳が燃えるのを見たことがあった。あの焦げた匂いは、なぜか今でも夢のなかで息を潜めている。
けれど、その“舞台”には主役がいなかった。
レイジは夕食の場で隣に座り、朝には短く挨拶を交わすだけ。完璧な距離感を保ちながら、まるで脚本通りの演技をこなしているようだった。
ユリトは、食器に映る自分の顔を見つめた。
微笑んでいるはずのその顔は、どこか硬く、瞳だけが泣いているように見えた。
これは誰の“恋人”の顔だろう。誰の“幸福”の影だろう。
* * *
契約第七条──「外部に対しては、自然な恋人同士であると誤認される態度を維持すること」。
たとえば、肩に触れる指先。
たとえば、手を添えてカップを受け取る動作。
たとえば、廊下ですれ違うたびに交わす笑顔。
全てが“演技”であることを、ユリトは知っていた。だがその演技は、あまりに滑らかで、時に甘く、時に苦かった。
「……冷めてるぞ」
レイジは珈琲を差し出しながら、言った。
それはただの確認のはずだった。けれど、ユリトの胸に少しだけ温かい痕が残った。
「……ありがとうございます」
そう返すユリトの声は、なぜか少し震えていた。
* * *
夜、部屋に戻ると、枕元には一冊の本が置かれていた。
表紙には、百合と薔薇が交錯する文様──まるでこの館の象徴のようだ。
ページをめくると、そこには誰かの手によって挟まれた一輪の押し花があった。
それが、彼のものか、それとも――あの兄のものか。
わからないまま、ユリトは目を閉じた。
今夜の夢が、嘘か真か。どちらでも、きっと傷つく。
2.嘘のデート、街と瞳
銀の車体が街に降り立つ。
冬の陽光が斜めに差し込む大通り、石畳の上を二人は並んで歩いていた。黒薔薇レイジと、その“婚約者”――白羽ユリト。
ユリトは、自分の歩幅がレイジのそれに自然と合わせられていることに気づいていた。けれど、気づいたからといって、それを止める理由もなかった。
高級ブティックでの服の試着、取材陣のカメラの前で交わす仮初の笑顔。
カフェの小さなテーブル越し、ユリトが口にした紅茶は、ほんのりと苦かった。
「……演技は上出来だ」
レイジが呟いたとき、ユリトはカップを静かに置いた。
「あなたこそ、“本物の恋人”のようでした」
皮肉でも、嘲りでもなかった。
ただその言葉の奥に、わずかな期待の色が滲んでいた。
ふいに、レイジの視線がユリトに重なった。
それは契約の“台詞”ではなかった。
一瞬、時が止まる。ふたりの間の虚構が、風に揺れる薔薇の花弁のように、かすかに軋んだ。
その帰り道。路地の角に、傘を差した男が立っていた。
深い紫の傘。黒よりも冷たく、血よりも優雅な色。
男は静かに微笑んだ。
その微笑みは、何かを知っている者のものだった。
3.兄の帰還、そして囁き
黒薔薇邸に、新たな風が吹き込んだ。
レイジの異母兄、黒薔薇セツナ。
彼はユリトの前に現れた瞬間から、まるで長年の友のように微笑んでいた。
「初めまして。あなたが、噂の――“花婿候補”ですね」
「……この館には、長く消せない匂いが染みついているでしょう? 薔薇、百合、そして――燃え残りの火の匂い。」
その言葉には、棘のような柔らかさがあった。
レイジは兄を“兄”と呼ばなかった。セツナもまた“弟”と呼ばなかった。
二人の間に流れるのは、血の温度ではなく、冷たい記憶だけだった。
セツナは言う。
「あなたの瞳、どこか懐かしい。……そう、あの子に似ている」
“あの子”が誰なのか、ユリトは訊けなかった。
けれど、その夜、邸内の奥で交わされた兄弟の会話を、ユリトは密かに耳にした。
「お前、本気であの子を“あの代わり”にするつもりか」
「黙れ」
「可哀想に。どちらも、また傷つくのに」
ガラス越しの薔薇たちが、微かに揺れていた。
夜風ではない。兄弟の沈黙が、空気を震わせていた。
4.口づけは、罰か赦しか
夜会の日。黒薔薇財閥の名のもとに集う紳士たちの前で、ユリトはレイジの隣に立っていた。
光の海に咲いた一輪の白百合。その純粋さが、誰よりも美しかった。
「レイジ様、そちらがご婚約者……お噂どおりの方ですね」
社交辞令と笑みが交差するなか、ある男が言った。
「やはり、愛の証として――一つ、口づけでも」
空気が止まった。
ユリトはレイジを見上げる。レイジは表情を変えず、ただ低く言った。
「……俺のことを、今夜だけは“愛している”と言え」
ユリトの唇が、わずかに震えた。
けれど、逃げることは契約違反だった。
ユリトは一歩、踏み出した。
そして、唇が重なる。
──それは、温かかった。
だが次の瞬間、レイジの瞳に映ったものは、明らかに契約の外側だった。
欲望か、渇きか、哀しみか。あるいは、すべてか。
夜会の後、ユリトは一人、温室にいた。
百合の香が、まだ唇に残っている。
「……甘いのに、苦い。毒みたいだ」
背後で、足音がした。
振り返ると、そこに立っていたのは――兄、黒薔薇セツナ。
「おや、こんな夜に一人とは。……君は、どこまで罪を知ってる?」
セツナの声は、まるで花弁に落ちる雨粒のように、優しくも冷たかった。
ともだちにシェアしよう!

