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第2幕:揺れる三角関係

1.レイジの温度、セツナの距離  口づけのあと、空気が変わった。  それは、言葉にならない音のない音だった。  黒薔薇レイジは、相変わらず冷静で、無表情で、すべてに無関心を装っていた――ただし、ユリトを除いて。  ユリトが扉に手をかけると、先にその手を取って開けるようになった。  カップに注がれた紅茶の温度が、少しだけ好みに近くなった。  「黙ってついてこい」と言っていた男が、「……今日は、寒いから外出は避けよう」と呟いた。  そういう微細な“変化”に、ユリトは気づいてしまう。  気づいてしまうから、困ってしまう。  これは契約。恋人という役を演じているだけ――だったはずなのに。  セツナは、まるで誰かの夢から出てきたように現れる。  柔らかなマフラー、ふわりと香る香水、指先に持つ一冊の詩集。  「ユリト君、寒くない? この色、君に似合うと思って」  彼はそう言って、薄紫の手袋を差し出した。  やわらかな素材の手袋には、百合の刺繍が施されていた。  「レイジが選ぶなら、もっと黒々しいものを選ぶんだろうけどね。君には、白が似合う」  セツナの言葉は優しく、何一つ非礼ではなかった。  けれどその視線の奥に、ユリトはどこか、檻のようなものを感じる。  「兄弟って、不思議なものだよね。似ているようで、全然違う」  「君は、どちらが好き?」  何気ない問いのように聞こえた。  でもその声には、答えを知っている者の静かな愉しみが潜んでいた。  夜、ユリトは寝室の窓を開ける。  冷たい風が頬を撫でたあと、どこか遠くでピアノの旋律が聞こえた気がした。  レイジは不器用に、セツナは優雅に。  ふたりの手のひらが、同じ花を摘もうとしている。  自分は花ではない――そう思いたいのに。  摘まれてしまいそうな感触が、肌の奥に残っていた。 2.温室の雨、仮面の素顔  雨は静かに降っていた。  細い糸のような水滴が、ガラスの天井を伝い、まるで誰かの泣き声のように音を立てる。  ユリトは温室の片隅、百合の棚のそばで本を読んでいた。頁の上にも、白い花弁がひとつ落ちていた。  「……君は、雨の日が好きなんだね」  不意にかけられた声は、花の香りのようにやわらかかった。  振り向くと、そこにセツナがいた。  傘も差さず、濡れた髪のまま。けれど彼は濡れ鼠には見えなかった。雨粒すら、装飾のように彼の優雅さを飾っていた。  「寒くないんですか?」  ユリトが訊くと、セツナは微笑んだ。  「昔、こういう雨の日にね――百合の花みたいな子がいて、僕はよく、その子とこうやって花を見ていたんだ」  セツナは歩み寄り、ユリトの隣に腰を下ろす。  「その子は、儚くて、透き通っていて、すぐに傷つくくせに、強かった。君に……よく似ているよ」  「……その人は、どうなったんですか?」  ユリトの問いに、セツナは答えなかった。  セツナの沈黙が、雨音の中で濃くなっていく。  その沈黙の温度が、ユリトにはどこか「火」に似ている気がした。  ゆっくりと近づいてきて、最後には肌を焦がすような。  それは暖かくもあり、同時にどこか“逃げ場のない熱”だった。  思い出せない誰かが、“そうやって”消えていった気がした。  ユリトは昔から、火が少しだけ怖かった。  あたたかいのに、すべてを奪っていく。  それはまるで、愛情に似ていた。  ただそっと、ユリトの頬に指先を這わせる。  その指は冷たく、しかし震えていた。  「この頬の白さ。昔と同じだ。……けれど、今は“他人”なんだよね。悲しいね」  ユリトは目を伏せた。何も言えなかった。 * * *  その数メートル奥、ガラスの影。  レイジは温室の入口に立ち尽くしていた。  雨に打たれていたのか、髪が濡れている。  だが彼はそれを拭おうともせず、ただ、見つめていた。セツナの手が、ユリトの頬に触れた、その一点だけを。  ガラス越しの視線は、何も語らず、けれど燃えていた。 * * *  その夜、ユリトは夢のなかで百合の花と手を繋いでいた。  白い花は彼の指をほどき、誰かのもとへふわりと落ちていった。  手のひらに残った温もりだけが、真実だった。 3.そしてアサギが現れる  その日、ユリトはひとりで屋敷の外を歩いていた。  小さな中庭に繋がる裏門の鍵を、レイジから一時的に預かった日のことだった。  冬の終わりが近づいているはずなのに、風はまだ冷たい。  ユリトはマフラーの端を結び直し、風に舞う木の葉の影を追った。  そして、その先に――ひとりの青年が座っていた。  黒いコート。長い睫毛。色素の薄い髪。  瞳の色は、まるで空から色が消えたあとの青。  その青年は、壁にもたれて、微かに震えていた。  「……大丈夫、ですか?」  近づいたユリトの声に、青年はゆっくりと顔を上げた。  その目に、わずかな驚きと、奇妙な安堵が浮かぶ。  「……君、は……」  声は擦れていたが、どこか澄んでいた。  「あなた、ここで……倒れていたんですよ」  「……そう、か。僕は……ここに来たかったのかもしれない。けど、なぜ……?」  青年は記憶を失っていた。名前も、過去も、すべて。  ユリトは咄嗟に自分のマフラーを外し、彼の肩にかけた。  その動作は無意識だった――まるで昔から知っていたかのように、自然で。 * * *  医師の診断のもと、青年は黒薔薇邸の離れに数日間、保護されることになった。  レイジは眉をひそめながらも、  「それが“君”の意志ならば」と言い、屋敷に彼を迎え入れる。  「君の名前は?」と訊かれ、青年は少し考えてから答えた。  「アサギ……と、呼ばれていた気がする。朝霧、アサギ。……それで、いいかな」  セツナは、その名を聞いた瞬間、ほんのわずかに目を細めた。  「奇遇だね。昔、同じ名の人を、知っていた気がする」 * * *  その夜から、屋敷の空気は少しずつ変わっていく。  レイジがユリトを見つめる頻度が増えた。  セツナの笑みに翳りが宿った。  そしてユリト自身もまた、アサギに“懐かしさ”を覚えずにはいられなかった。  彼の声も、仕草も、瞳の奥のやわらかさも――  何かを思い出させる。けれど、それが“何か”を思い出せない。  アサギは言った。  「……君の目は、どうしてそんなに寂しいの?」  ユリトは答えなかった。ただ、その言葉が、胸の奥に刺さった。 4.交錯と沈黙の夜  その夜、音が遠くにあった。  風の音も、時計の針も、すべてが一瞬だけ息をひそめた。  ユリトは読書室で一人、本のページを繰っていた。  だが目は活字を追いながらも、意識は離れの棟へと向いていた。  アサギの寝室の灯りは、まだ消えていない。  セツナのピアノは、今夜に限って沈黙している。  そして、レイジの部屋からも物音ひとつ聞こえてこなかった。 * * *  一方、主棟のバルコニー。  セツナはワイングラスを揺らしながら、レイジに言った。  「君はまた、彼を失うつもりなのかい?」  その言葉に、レイジの指がわずかに震えた。  「……誰の話をしている」  「決まっている。あの白百合のような子。   昔、君が守れなかったもの。   君が手にかけた“罪”の名を、まだ覚えているのなら」  レイジは何も言わなかった。  ただワイングラスを置き、背を向けた。  「その名前を口にするな、セツナ」 * * *  レイジは、そのまま夜の廊下を歩いた。  ガラス窓に映る自分の顔が、知らない男のようだった。  扉の前で立ち止まる。開ける。  中には、誰もいなかった。  けれど、そこにはある物が置かれていた。  古びた銀の写真立て。  そこに写っていたのは、白い百合を抱いた少年と、レイジの少年時代の姿。  その写真の背に、誰かの手で記された文字。  《いつか、もう一度》  その文字を見た瞬間、レイジは額を押さえた。  封じていた記憶が、内側から軋む音を立てる。 * * *  そのころ、ユリトは温室にいた。  静かな闇のなかで、咲き残る白百合にそっと触れる。  「……君は、どこを見ているの?」  声がして振り返ると、そこにセツナがいた。  彼は夜の帳をまとったような黒のタキシード姿で、月明かりの中に浮かんでいた。  「ユリト君。君を閉じ込めてしまいたい、と思うときがあるよ」  「……それは、どういう……」  「優しい意味で、なんて言わない。   けれど、“他の誰かに触れられるくらいなら”――そう、思ってしまうくらいには、君が綺麗だ」  セツナの指が、ユリトの顎先にそっと触れた。  その直後、温室の扉が開いた。  レイジが立っていた。  瞳に、感情という名の炎を灯して。 * * *  三人の視線が交差した。  まるで、夜という舞台に仕組まれた演目のように。  そのとき、ユリトの胸に浮かんだ言葉は、ただひとつだった。  ――これは、愛じゃない。けれど、愛に似た“罰”のようだ。

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