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第3幕:秘密の暴露と過去の因縁
1.写真の少年と白百合の記憶
誰かの夢を、何度も繰り返し見ることがある。
それは、まるで自分の記憶のように鮮やかで、けれど目覚めるたびに何も残っていない。
ユリトは、黒薔薇レイジの部屋で見つけた一枚の写真を、静かに見つめていた。
白百合の群れに抱かれるように、ひとりの少年が立っている。
その隣には、まだ幼いレイジの姿。どちらも微笑んでいた。
――いや、正確には、微笑もうとしていた、のかもしれない。
その少年の目は、どこか悲しげだった。
仮面をつける前のユリトの目に、どこか似ていた。
* * *
ユリトはその夜、夢を見た。
百合が咲き乱れる温室。
風がなくても花が揺れている。
遠くで誰かが名を呼んでいる。
──ゆりと。
振り向いても、誰もいない。
けれど足元には、落ちた一輪の花がある。
それを拾い上げたとき、指先に鋭い痛み。
白い花弁の裏には、見えない棘があった。
血が、一滴だけ落ちる。
それを、誰かがそっと拭ってくれた。
「痛くない?」
優しい声。
ユリトは顔を上げた。
そこに立っていたのは──写真の少年だった。
けれどその顔は、自分の顔と重なっていた。
* * *
翌朝、ユリトは旧温室の存在をセツナから聞いた。
「昔ね、この屋敷にはもうひとつ温室があったんだ。
今は使われていないけれど……君が見ると、何か思い出すかもしれない」
それはあまりに自然な口ぶりで、
しかし、用意された“導線”のように滑らかだった。
その言葉に導かれるように、ユリトは旧温室の鍵を受け取った。
* * *
その温室は、今のものよりもずっと古く、小さく、静かだった。
木々の間に白百合がひっそりと咲き残り、
空気には、時間そのものの匂いが混じっていた。
ユリトは扉の前で立ち止まった。
胸の奥で、何かが――ざわり、と揺れた。
「……ここを、知っている」
誰にも教えられていないはずなのに、歩くべき場所を知っていた。
窓の開け方、棚の配置、光の入り方。
すべてが“既知”だった。
そのとき、背後で声がした。
「ここ……僕、昔、来たことがある気がする」
振り返ると、そこにはアサギが立っていた。
彼もまた、記憶という名の亡霊に導かれるようにして、ここへ辿り着いたのだ。
「この匂い、……忘れられない。白百合の匂い。
兄と最後にいた場所も、こんなふうだった……」
その言葉の“最後”という響きが、どこか火の気配に似ていた。
あたたかく、やさしく、けれど決して戻ってこないもの。
火は、すべてを照らしながら、同時に奪っていく。
そして残るのは、名前をなくした白百合と、燃え残りの記憶だけ――。
ユリトはその言葉に、背筋が粟立つのを感じた。
兄――?
アサギの兄とは、いったい誰なのか。
そして“最後にいた”という言葉の意味は。
* * *
ユリトの胸に、一枚の記憶が差し込んだ。
それは、幼い頃。
誰かと手を繋ぎ、白百合の花の間を走っていた記憶。
その人は、いつも微笑んでくれていた。
でも──ある日、突然、いなくなった。
そして残されたのは、血に濡れた白百合の夢だけだった。
2.契約の本当の理由とレイジの罪
夜の黒薔薇邸は、いつもよりも静かだった。
まるで、言葉そのものが禁じられているかのように。
だが、その沈黙を破ったのは、レイジの乾いた声だった。
「君に話さなくてはならないことがある」
ユリトは振り返る。
レイジは壁にもたれ、煙草を手にしていた。けれど火はついていない。
代わりに、彼の眼差しには、炎よりも痛ましい熱があった。
「“契約”……君が俺の婚約者になる、という条件。あれは……財閥の保身のための建前だった。
だが、真実は、もっと――俺個人の、身勝手な理由だ」
レイジはゆっくりと歩み寄り、ユリトの手に触れた。
その手は冷たくも温かくもなかった。ただ、“壊れていた”。
「十年前、俺には好きな子がいた。白百合のように、静かで美しい子だった。
けれど、俺は――その子を、守れなかった」
ユリトの胸が、締めつけられるように痛んだ。
彼の知らない記憶なのに、どこか身体が反応していた。
「事故だったと、言われた。だが……あの夜、俺は確かに言ったんだ。
“来るな”と、“もう顔も見たくない”と。俺のくだらない意地と恐れで、あの子を突き放した。
……そして翌日、遺体が見つかった。温室で、白百合に埋もれるようにして、冷たくなっていた」
レイジの声は、ここでかすかに震えた。
その震えを、彼自身が最も許せないのだろう。
「だから俺は誓った。二度と誰も愛さない、と。
そして“彼”の面影を持つ誰かを、自分の傍に置くことで――“罰”を受け続ける、と」
ユリトは、その言葉を聞きながら、自分の内に浮かび上がる問いを抑えられなかった。
“彼”の面影とは、いったい――誰のことなのか。
自分はただ「似ていた」から選ばれたのか?
それとも、それ以上の意味があるのか?
レイジは続けた。
「君を見たとき、あの子が戻ってきたのかと思った。
けれど、違った。君は、君だった。……それが、どんなに俺を脅かしたか、君にはわからない」
ふいに、レイジがユリトの手を離した。
その掌には、まるで血がついているかのような苦悩が滲んでいた。
「……ごめん、ユリト。俺は君に恋をしてはいけなかった。
これは、愛じゃない。罰であり、赦しの演技だった。……そう、思っていたのに」
レイジは初めて、自分を責める声でそう言った。
* * *
ユリトは、レイジの背中に何も言えなかった。
ただ、胸の奥に確かな感触があった。
それは“憎しみ”でも“同情”でもなかった。
ただ、静かで――悲しいほどに、共鳴していた。
「……私も、思い出せない何かを、ずっと抱えているんです」
「その“あの子”と私の距離は、あなた以上に、私を苦しめているのかもしれません」
そしてふたりの沈黙の間に、月の光がそっと降りてきた。
まるで、白百合の花弁が、またひとつ、時を越えて落ちたかのように。
3.アサギの正体、蘇る名と裏切りの名残
その夜、離れの一室で、アサギは静かに眠っていた。
夢の中で何度も見る光景があった。
白百合の花畑。
風のない空。
遠くに立つ、ひとりの少年。
その少年は、何度も名を呼ぶ。
けれどその声は、いつも途中で掻き消える。
──まるで、誰かの手によって“存在そのもの”が消されてしまったかのように。
* * *
目を覚ましたとき、アサギは涙を流していた。
それは夢のせいではなく、夢のなかにしか“兄”がいなかったせいだ。
「……兄さん……」
初めて、自分の口からその言葉が漏れた瞬間、記憶の扉が軋む音を立てて開いた。
* * *
翌朝、アサギは自らレイジの執務室を訪ねた。
その背筋は静かで美しく、だが目だけが、どこか硝子のようにひび割れていた。
「話したいことがあります」
レイジが眉をひそめたのは、その声音に“かつての誰か”の面影が宿っていたからだった。
「……僕には、兄がいました。名は、朝霧リク。
十年前、黒薔薇邸に出入りしていた。レイジさん、あなたの“特別な人”だった」
その言葉に、室内の空気が変わる。
「ある夜、兄はこの屋敷で命を落としました。事故、と言われました。
でも――兄の日記には、最後に会った人物の名が書かれていた。
それは、“黒薔薇セツナ”。」
* * *
一方、セツナはサロンの椅子でワインを傾けていた。
目を閉じ、アサギの声を思い出すように微笑む。
「やっぱり、思い出したか。
君の瞳は、あのリクと同じ色をしていた」
彼は、レイジの知らぬ場所で、すでに“真実”を知っていた。
* * *
再びアサギの声が響く。
「レイジさん。あなたは、兄を死なせたと自分を責めていた。
でも、本当は――“違う”。
兄を消したのは、あなたではない」
レイジの目に、衝撃が走る。
「……どういうことだ」
「兄は、あなたの言葉に傷ついた。でも、それだけじゃなかった。
“最後に兄を屋敷に呼び出したのは、セツナだった”。
そしてその夜、兄は温室で“転落”した。監視カメラの記録は“事故”として処理されたが、
本当に“ただの偶然”だったのか……?」
ユリトはそのやり取りを、扉の外で聞いていた。
彼の心にもまた、十年前の“白百合の死”が血のように滲んでいた。
* * *
レイジは膝に置いた手を見つめながら、呟いた。
「……あの日。俺が、言葉で殺したと思っていた。
けれど……俺よりも、もっと深く、もっと静かに“本物の死”を与えた者がいた……というのか」
アサギは頷く。
「兄は、あなたを愛していた。でも――それを憎んだ者がいた」
「そして、“僕”は、その罪の続きを見るために、この屋敷に来たのかもしれません」
* * *
室内の白百合の花瓶が、風もないのにかすかに揺れた。
それは、亡霊の吐息のようだった。
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