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第4幕:愛か、血か
1.すれ違う祈り、崩れゆく館
ユリトは、ひとりで館を出た。
朝露もまだ乾かぬ早朝、白百合が咲き残る庭園を抜け、裏門から姿を消した。
邸の空気は、何かが“終わりに近づいている”匂いをしていた。
薔薇は次々と萎れ、温室の扉は閉ざされたまま。
それでもレイジの部屋には、毎朝決まった時間に珈琲が届いていた。
* * *
「……追うつもりかい?」
セツナは、庭の欄干にもたれながら訊いた。
レイジは何も答えなかった。
ただ、手にしていた銀の懐中時計を、そっと閉じた。
「彼は、もう“あの子”じゃない。
そして君も、“過去に縛られる存在”ではなくなっていたのに……気づけなかったんだね」
「黙れ」
レイジの声は低かった。だが、その響きには空虚があった。
セツナは寂しそうに笑った。
「君は、誰を愛していたんだ?
ユリト? それとも“君自身の後悔”か。
君が本当に欲しかったのは、償いか、それとも再演か」
* * *
一方、離れの小部屋。
アサギは、百合の花を一輪、手折っていた。
そして、何かを見つめていた。
窓の外では、黒薔薇の垣根が霜に打たれて崩れはじめていた。
花びらが、誰かの罪の記憶のように、ひとひらずつ落ちていく。
「兄さん……僕は、君の代わりになれたかな」
「それとも僕も、“罰を受ける役”に過ぎなかったのかな……」
呟いた声は誰にも届かず、ただ夜明けの空へと溶けていった。
* * *
その日、邸内の温室のガラスが、一本だけ音を立てて割れた。
誰の手でもなく、誰の仕業でもなく。
それはまるで、
かつて封じられた感情が、ふたたび息を吹き返したかのようだった。
2.告白と崩壊、真実の灯火
ユリトは、街の外れにある古い教会跡に身を寄せていた。
眠れぬまま迎えた三日目の朝、微かな足音が背後から近づいた。
振り返ると、そこにいたのはレイジだった。
スーツのまま、ネクタイも緩めず、息すら乱さずに佇むその姿は、いつか夢のなかで見た“亡霊”のようだった。
「……ここにいるとは、思わなかった」
そう言った声は、凍てついた朝の空気よりも、ずっと静かだった。
* * *
ユリトは答えなかった。
ただ、黙って視線を落とした。
それでも、レイジはひとつずつ、言葉を選ぶように続けた。
「君に似ていたから惹かれた。それは事実だ。
でも――今は、“君”だから、惹かれている」
「……私の中には、“あの子”がいる気がするんです。
名前も記憶も、違うのに……ずっと、叫んでる。
“あなたに殺された”って」
レイジの指が震えた。
その震えが、彼の感情の底に沈んでいた“何か”を証明していた。
「だったら……俺は、何度でも、君に赦されたい。
一生かけて、あの言葉を――その罪を、償うから」
その声には、かつての冷たさも、仮面もなかった。
ただ、壊れてしまいそうな不器用な“願い”が、裸のまま投げ出されていた。
* * *
ふたりの距離が、もう少しで手の届く場所まで縮まったそのとき――
轟音が、邸の方角から響いた。
黒薔薇邸、旧温室のある方向から。
地響きのような音と、揺れる地面の匂いとともに、“炎の煙”が空に昇っていくのが見えた。
「……あれは……っ」
ユリトは声を詰まらせた。レイジが目を見開く。
次の瞬間、ふたりは駆け出していた。言葉もなく、ただ、祈るように。
* * *
館に戻ったとき、旧温室はほぼ全焼していた。
百合の温室──かつて少年が死んだ場所。
セツナが“罰の象徴”として閉じ込めていた記憶の聖域。
使用人のひとりが言った。
「火元は……中から、誰かが意図的に……でも、もう誰も中にはいませんでした」
レイジは何も言わなかった。
ただ、焦げた土の中から崩れ落ちた銀の写真立てを拾い上げる。
白百合と、少年と、かつての自分が映る写真。
焼け跡の黒に、その銀だけが異様に浮かんでいた。
* * *
ユリトは、燃え尽きた温室の前で、アサギとすれ違う。
アサギは何も持たず、何も言わず、ただ歩いていた。
その表情には、涙も怒りもなかった。
ただ、“終わり”を知る者の顔だけがあった。
ユリトは彼の後ろ姿に、そっと問いかけた。
「……あなたが、火を?」
アサギは振り向かず、ただ言った。
「火は……もう、誰の心にも、ずっと前から灯っていたよ」
3.赦しの花、血を超える誓い
火は止んだ。
けれど、あの温室で燃えたのは建物だけではなかった。
ユリトは、レイジの部屋で彼の眠る姿を静かに見つめていた。
黒薔薇邸に戻ってきたとき、彼は煙を吸い込み倒れていた。
誰よりも罪に近くいた男の身体は、あまりに脆く、静かだった。
ユリトは、ふと自分の掌を見つめた。
小さな傷が一つ――温室の柱を掴んだときについた、ささやかなもの。
でも、その血は確かに“自分自身”のものだった。
「……私は、あの子じゃない。
でも、あの子の記憶を抱えている。
それでも、あなたに触れたいと思った。
この手で……あなたの頬に、花を咲かせたいと、思った」
誰に向けた言葉でもなく、ただ夜の空気に零れるように。
* * *
扉が静かに開いた。
そこに立っていたのは、アサギだった。
「……眠ってるんだね、彼」
「ええ。……何も食べてなくて、倒れて……」
アサギは頷くと、そっとユリトの隣に腰を下ろした。
しばらく沈黙が流れる。
だが、やがてアサギはぽつりと口を開いた。
「兄さんは、僕に“赦すな”と言っていた気がする。
でも、本当は、誰かを赦したくて仕方なかったんじゃないかな。
だって――彼はずっと、レイジさんを見てた。
最後の瞬間も、きっと……」
「……それを知ってて、あなたは?」
アサギは小さく笑った。
どこか寂しげで、けれど風が抜けるような笑みだった。
「僕も、兄の影として生きていた。
けど、今は違う。……ユリト。
君が君として、この場所にいるのなら、
僕も“僕”として、生きてもいい気がした」
* * *
その夜、セツナの書斎の机の上から、一通の手紙が見つかった。
それは、火事の前に書かれていたものだった。
宛先:白羽ユリト
《この家は、罰の器だった。
私はその鍵であり、蓋だった。
レイジは、憎しみも愛も背負ってくれた。
私はそれを知っていながら、黙って見ていた。
でも君だけは、君の意志で、生きてくれ。
この呪いを、終わらせる権利は、君にある。》
そこには、かつての黒薔薇家に咲いていた白百合の押し花が一輪、添えられていた。
* * *
ユリトはその夜、レイジの眠る傍らでささやいた。
「……私は、私として、あなたを見ます。
贖罪の影じゃなくて。罪の幻でもなくて。
ただ、あなたという人間を――愛せたら、と思います」
その言葉を聴いたかのように、レイジの指が微かに動いた。
4.花婿の選択、そして夜明け
春の初め、黒薔薇財閥は“象徴的な儀式”を行うと発表した。
名目は後継者と花婿候補の選定――だが実際には、
長く閉ざされていた“血の歴史”を終わらせるための舞台だった。
その場に立つのは三人。
レイジ、アサギ、そしてユリト。
しかし彼らは、誰一人として「誰かの名前」を語らなかった。
名は伏せられ、立会人たちには“ただの三つの影”として紹介された。
それは奇しくも、契約の始まりと同じ――
「名ではなく、意志」で立つ場だった。
* * *
式典の終わり、ユリトは壇上に立ち、全員に向けて言った。
「私は、白羽ユリトとしてここにいます。
もう誰の代わりでもなく、誰かの罰のための存在でもありません」
風が静かに吹く。百合の花弁が、一枚、空に舞った。
「ここにいる人の中に、“あなたに選ばれた”と感じる人がいるなら……
私もまた、“あなたを選びたい”と思います」
誰かの名を呼ぶことはなかった。
だが、ユリトの視線は――確かに、ひとりだけに向けられていた。
* * *
レイジが、ゆっくりと歩み寄る。
花婿というには不器用な姿。
けれど、その足取りには嘘がなかった。
「契約から始まった。でも、もうそれじゃ足りない」
「だから……これからは、“愛している”と、君に言わせるのではなく、
俺が、言い続けたいと思った」
ユリトは、そっと微笑んだ。
「……なら、一緒に、名前のない花を育てましょう。
罪でも、赦しでもない、“選ばれた時間”を」
「そして、あなたが“愛している”と言ってくれるたびに……
私は、また新しく生まれ直せる気がするんです」
* * *
背後で、アサギは穏やかに微笑んでいた。
彼はもう、この館を離れる覚悟をしていた。
兄のためではなく、自分の人生のために。
最後にユリトへと小さく囁く。
「兄さんも……きっと、許すと思う。
君が君であることを、誰よりも美しいと信じた人だから」
* * *
数日後、黒薔薇邸の庭に、一輪の白百合が咲いた。
旧温室が燃えた跡に、誰かが植えた種だった。
それは、かつての償いの証でも、偽りの恋の象徴でもなかった。
ただ、“誰かを本当に愛してもいい”と、選ばれた花だった。
数日後、黒薔薇邸の庭に、一輪の白百合が咲いた。
旧温室が燃えた跡に、誰かが植えた種だった。
それは、かつての償いの証でも、偽りの恋の象徴でもなかった。
ただ、“誰かを本当に愛してもいい”と、選ばれた花だった。
ユリトはその花の前に立ち止まり、そっと呟く。
「……この花の名前を、私がつけてもいいのかな」
誰も答えなかった。
けれど、風が優しく揺れていた。
そして、夜が明けた。
遠くで、誰かの足音が、こちらに向かってくる気がした。
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