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第8話
【婚活支援★心が伝わる手作りクッキー講座】
『弊社が主催するお料理イベントで、毎回大好評です。明日夜7時からでエグゼクティブ会員様は参加費は無料。本日まで満員でしたが、キャンセルで2名分の空きができました。ぜひ私と一緒にご参加いただけないでしょうか?』
「へぇ~……」
こんなイベント運営も鶴矢さんのお仕事の一つなのかな。欠席の穴埋めだとしても、鶴矢さんが来るならモチロン俺も行きたい。
しかし、残業三昧の社畜の俺にとって夜七時になんて退社できるはずもなく、やっぱり明日も会議が入ってる。せっかくだけど断るしか……。
『透くんが来てくださったら、必ず楽しんでいただけるよう、精一杯おもてなしさせていただきます。もしよろしければ講座の後、お食事にお誘いさせていただきたく』
『ハイ! 絶対行きます! 参加でお願します!』
思わずそう答えてしまった。だって、鶴矢さんとの食事を断るなんて俺にはできない。
『嬉しいです。ありがとうございます』
ニコニコのスタンプとともに詳細が届いた。
教室の開催場所はエトワールの二階だから、明日はその5分前に受付にいる鶴矢さんと待ち合わせ。持ち物はエプロンのみ。
鶴矢さんのエプロンってどんなのかな~。
クッキー作りは初めてだという鶴矢さん。実は俺は過去に一度ある。
学生時代のバレンタインだった。好きな人に渡すため、そのころ誘が住んでいた、誘の親が所有する豪華マンションのキッチンを借りて練習した。しかし俺の告白は成功せず、せっかく上手くできたクッキーも受け取って貰えなかったので、忘れてしまっていい話だ。鶴矢さんと作るクッキーこそ俺の初めてのクッキーだ!!
「──おい木原、いつまでもそこで何やってる!」
背後から声をかけられ、思わず飛び上がった。手から滑り落ちたスマホが床にぶつかり、耳障りな音が辺りに響き渡る。
振り返った俺を、席にいたはずの上司、墨谷さんが腕を組んで睨み付けていた。
新卒で入社したときは上司ではなく四個上の先輩で、俺の指導役だった。その時は丁寧に仕事を教えてくれて、休憩中に相談にのってくれたり、業後も食事に連れていってくれたりして、すごく優しかった。なのに、今は俺が嫌いで嫌みばかり。俺が会社を辞めたい原因一位の男だ。
「お、お疲れ様です……」
俺は精一杯の愛想笑いを浮かべ、急いで墨谷さんの足元に転がっていったスマホを拾った。鶴矢さんとのチャット画面が墨谷さんにも見えたらしい。しゃがんでいた頭の上から「仕事中に男とおしゃべりか」と舌打ちされた。
「す、すみません。でも、仕事ならもう終わりました……」
「なら何故、だらだらと居残ってこんなところで私用の会話をしてる? 何か意図があるのか?」
墨谷さんが迫ってくる。意図ってどういうこと? まさかなんか疑われてる?
「すみません、今すぐ帰ります……」
いつの間にか、他の社員はみんな帰っていた。フロアにはもう、俺と墨谷さんしかいない。しんと静まった空気にいっそう緊張しながら、俺はこわごわと墨谷さんの目を見た。
「あの……実は明日どうしても外せない急用が入ってしまって……。それで定時で上がりたいんです。明日だけ、先に帰ってもいいですか?……」
墨谷さんの形の良い眉がぴくっと動いた。
「急用とは?」
「それは、プライベートのことなので……」
しどろもどろになりながら、スミマセンと頭を下げた。
毎週火曜の夜、俺は墨谷さんと一緒に中東とのリモート会議に参加している。取引先は豊かな国の王族がやっている石油会社。俺は商談には関係ないが、莫大な取引額の大きさに似合うようにと部長から言われて人数合わせで参加している。王族とは思えないくらいみんな気さくで日本語で話してくれて仕事の中では一番楽しい時間なのだが、時差の都合で、開始時刻が日本時間で20時。残念だけど鶴矢さんのデートのためには参加できない。
「急用なら仕方ないな。俺は上司として、部下である木原の希望を叶える義務がある」
「あっ、ありがとうございます!」
案外あっさり認めてくれたと感激したのは、甘かった。
「その用事とやらが男とのデートだとしてもな」
「…………」
恐ろしい目で睨まれて言葉がでない。
昔の優しかった頃とは別人だ。墨谷さんにとって男が男を好きになるってそんなに許せないもんなのか? この国ではもう結婚もできるのに……。
いいや。とにかく明日は定時で帰れる。
「…………それじゃ、俺は帰ります。お疲れ様でした……」
「待て」
さっさと消えようとする俺を墨谷さんは引き留めた。俺の胸から資料を奪い取り、一枚ずつ目を通し始める。そしてすぐに俺に見せつけるように目の前で破った。
「この提案書は却下だ。明日またやり直せ」
「はぁっ!?」
「確認できていなかったんだな。昼過ぎに客先から要件が代わったから見積もりを直せと連絡が来ていたぞ。提出期限は明日まで延びている」
「そんな……」
明日も客先での打ち合わせや商談が山のように入っている。それからやり直しとなると、19時に退社なんて絶対に無理だ。
「言っておくが、これはお前のミスだからな。これについては、俺もフォローしない」
呆然とする俺を残して墨谷さんがフロアに戻っていった。
『ごめんなさい、やっぱり明日は行けないです』
『承知しました』と鶴矢さんからの返事。
パタパタと雨粒が窓を打つ音が聞こえた。外では雨が降りだしている。傘、持ってきてないのに。
「クソ……」
墨谷さんの言うとおり、これは顧客からの連絡に気づかなかった俺の責任で、墨谷さんや仕事の忙しさ恨むのは筋違いってものだ。分かってるけどやるせなくて、泣けた。
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