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第9話

 終電にはぎりぎり間に合った。車内は俺と同じ残業終わりのサラリーマンや、飲み会帰りの学生で混雑している中、なんとか自分のスペースを確保。自宅まで20分ほどだが、立っていたらまた涙が出て、隣にいた酔っぱらいのグループに「おにーさんどうしたの?」って声をかけられて、恥をかいた。  何してんだか。墨谷さんに冷たくされるのも、仕事で予定が潰れるのもいつもの事じゃん。  最寄駅から自己嫌悪を引きずりながら歩いて、途中のコンビニに寄る気力もなくマンションに帰った。エレベーターに乗って、自宅のある四階で降りる。そしてすぐに違和感に気づいた。突き当たりの俺の部屋の玄関ドアに何か紙が挟まってる。俺は小さく折られたそれを、おそるおそる、人差し指で抜き取ってから開いた。 『連絡ちょうだい。 誘』  何が怖いって、使ってる紙が婚姻届のはしっこってことだ。表面の欄内はしっかり記入されていて、誘の名字の”雨宮”の印鑑もついている。金曜の分は俺がすでに破り捨てたと見越して、二枚目を持ってきやがったのか……。  念のため左右を確認した。誘が隠れている気配はない。急いで部屋に入った。  カバンをソファに投げ捨て、冷蔵庫から水と、買い置きの、栄養バーを口にいれる。美味しくないけど自炊も面倒でこればっか。プロテイン満点らしいけど俺の筋肉は育つ気配がない。咀嚼しながらスマホの画面に目を向けた。  誘は夜七時頃から十一時過ぎまで玄関前で俺が帰ってくるのを待ち、結局諦めて帰ったようだ。その間、何度も連絡が来ていたが、俺は誘とのトークルームの通知をオフにしていたため見ていなかった。最後には『無視すんな』と怒ってたけど、『結婚しよう!』ってしつこく送ってきた、誘の自業自得だろ。  それでも、四時間も人んちの玄関前で待ってたのか。もし他の居住者に通報されたら俺まで迷惑するのに。  風呂に入りながら考えた末、メッセージを打った。午前一時だけど、誘なら絶対にまだ起きてる。 『無視してごめん。でもしばらく俺のことはほっといて。心配すんなよ、誰と結婚しても誘のことはずっと好きだし』  濡れた髪をタオルで拭きながら、送信するかしばし悩んだ。  最後のは余計かな。でも、誘が俺の結婚を否定したい気持ちは理解できるから。俺たちは大学のゼミで出会って以来、何があっても、たとえ俺が誘に告白してフラれた翌日さえも、変わらずに遊び続けた真の親友だ。もしも婚活するのが誘の方だったら、俺だって、めちゃくちゃ嫌がって邪魔してたと思う。  思ったとおり、送信してすぐに誘の既読がついた。返信を見るつもりはないから、俺はさっさとトーク画面を閉じた。  誘なんかに付き合ってる場合じゃない。早く寝ないと。ベッドに横たわり、電気を消し、タオルケットをかぶった。  墨谷さんからどれほど冷たい仕打ちを受けようと、俺はやっぱり明日も会社に行って、墨谷さんの部下として働かないといけない。明日は営業MTがあり、寝不足で居眠りなんてもっての他だ。  営業MTとは、本部の営業100人以上が全員集合する会議で売上目標や計画の周知、業界動向など営業活動に関する情報交換など重要な内容が飛び交う。予定では一時間だが、実際にはいつも二時間近くかかっている長時間の会議だ。先週俺はその最中にうっかり居眠りして、墨谷さんに呼び出しを食らった。 「どうせくだらない男と遊んでいたんだろう!」  そんないつもの嫌味を、事実朝方まで誘とネットゲームで遊んでいた俺はハイと答えてしまった。それが墨谷さんの逆鱗に触れた。宙に浮きそうなくらい力いっぱい胸ぐらを掴まれて「次は決して許さない」と脅されたので、墨谷さんが恐ろしい俺は、婚活アプリに届いたメッセージに目を通したいのを我慢してぎゅっと目を閉じる。 「────、寝れねー……」  左右に寝返りを打ったり、うつぶせ寝、仰向け寝と色々試すがしっくりこない。それに今日あった嫌なことが思い浮かんで胸が苦しくなってくる。薄暗い部屋に俺のため息が響いた。  やっぱ明日会社行きたくないな。明日も今日と変わらず、一人ぼっちでみじめに過ごさないといけない。  誘が羨ましい。もし誘が俺だったら、一流企業勤めが唯一の取り柄とか、失ったら誰からも見向きもされなくなるとか、くだらないことは考えないで辞めたきゃ辞めるだろう。誘は自力で生きていける強さと能力があるけど、俺はそうじゃないから、辛くても毎日会社に行って、ヘラヘラ笑ってるしかないんだよな。 「………………」  いかん。このままじゃ一睡もできない。  ベッドサイドに置いてあるティッシュで涙を拭き、鼻をかんだ。ベッドに戻り、仰向けからうつ伏せになる。両膝を少し曲げ、腰を浮かせて頭は枕に押し付ける。 「ん…………」  股間に右手を入れて、スウェットパンツの布越しに萎縮した状態のちんこに触れた。指先で刺激してやると徐々に硬さが増して、反対に強張った身体からは少しずつ力が抜けていく。 「………っん………ふ、」  情けないけど近頃は毎晩してる。こうしている間は、しんどい気持ちから少しだけ逃れられる。

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