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第17話

 俺が墨谷さんに褒められるなんていつぶりだろう。 『顧客の都合で大変だったろうが頑張ったな。お疲れ様』  いつも皮肉ばっかりなのに、そんな優しい言葉をかけてくれた。 「ふふ、フフフフフ♪……」  営業フロアを出てから、顔がニヤけて戻らない。下りのエレベーターでは隣に立っている人に体を引かれて慌てて顔を覆ったものの、到着した一階ロビーでも、守衛さんに止められた。 「スキップするのは滑って危ないよ」 「あっ、体が勝手に!? どうも、スミマセン!」  会社でスキップするなと、注意をうけた社員は、長い歴史でもたぶん俺しかいないだろう。  顔を紅くしながらしっかりとタイル張りの踏みしめる。けどまだ心はフワフワと浮わついたままだ。  今回の商談は、本当に苦労ばかりだった。新規の客で、最初の聞き取りではごく簡単な取引のはずだったのに、いざ商談が始まると全然話が違っていて、無茶振りばかり。同僚みんなに嫌われている俺は誰にも頼れず、あちこちの部署に行っては頭を下げまくって商談を続けた。  昨日やっと終わったと思ったら、一からやり直し。せっかくの鶴矢さんとのデートチャンスも失った。それとは関係はないけど、今朝の満員電車では痴漢に遭った。  最悪だ……。俺は逃げ降りた駅のベンチに座って、ぐったりと俯いていた。遅刻するわけには行かないのに立ち上がる気力がわかない。とりあえず今の時刻を確認しようとスマホの画面を見ると、まだエトワールの営業時間前だというのに、鶴矢さんからメッセージが届いていた。 『おはようございます! 鶴矢です。 昨日は夜分遅くに急なお誘いをしてしまい失礼しました。  本日の私の予定は、18時まで相談カウンターに常駐、19時からは手作りクッキー教室に行ってきます。  ご相談はいつでも、二十四時間お待ちしております!』  俺はろくに考えもせず、返信してしまった。 『俺、本当に結婚できますか。もう仕事行きたくないんです』  やってしまった。熱意をもって仕事に向き合う鶴矢さんにとって、こんなの幼稚としか思えないだろう。せっかく色々と褒めて貰っていたのに台無しだ。  泣きながら、鶴矢さんからの返事を見た。 『いますぐお迎えに参ります!』  どういう意味……? 涙を吹いて見直そうとすると、またメッセージが。 『結婚して幸せになりましょう!』  励ましてくれてるんだ。可愛い花束のスタンプに、幻滅された感じがせずにホッとした。 『励ましありがとうございます! 急いで行ってきます!』  一度はもうダメだって思ったのに、提案書が上手くまとまって、墨谷さんが褒めたりするから、感極まって泣いちゃった。  無事にエントランスを抜け、自動ドアをくぐって外に出た。昼前に雨が降っていたけど、もう上がっていて、夜だというのに明るい。いつもとぜんぜん違う景色だった。普段の深夜帰りでは正門はすでに施錠されていて、通用口から薄暗い駐車場を抜けて出るしかない。  前を歩いている二人組の会話が盛り上がっていた。これから飲みに行くようだ。  俺も以前は墨谷さんと仕事終わりに食事に行った。一度だけ、俺なんかには敷居の高い大人のバーに連れていってくれて、キラキラと輝くバーカウンターで墨谷さんと夢みたいなひとときを過ごした。  あの頃に戻れたらいいのにな。  墨谷さんは俺のことが嫌いでも、仕事では、ちゃんと評価してくれるようだ。この調子で頑張っていれば、いつか墨谷さんが俺のことを見直してくれるチャンスも巡ってくるかもしれない……。  空を見上げると、オフィス街のビルの狭間に満月が浮かんでいた。欠けたところのない丸い形。まるで焼き立てサクサクのクッキーみたい……。  じんわり、目に涙が浮かんだ。  あぁぁ~~!! やっぱり残業なんかしたくなかったっっ!!!  本当だったら、鶴矢さんと手作りクッキー教室だったんだ。焼けたクッキーの交換とかしたかったな~! エプロン姿の鶴矢さん、見たかったな~~~っ!!! 「ん? んん……?」  ふと前方に、こちらに向かって手をふっている人物がいることに気づいた。  暗くてよく見えないけど、誘か。昨日ちゃんと連絡したのに今度は職場に迎えに来るなんて、さすがまるで分かってない。もしまたあの紙(婚姻届)を持ってきたんだったら、容赦なくぶん殴ってやる。  だが近づくにつれて、その人がスーツ姿で、ガタイのいい誘よりずっとほっそりとしていることに気づいた。  ──誘じゃない。目を凝らす俺にむけて、すっと美しいお辞儀をする。それが、鶴矢さんに見えた。そんなことあるわけないけど……。  いや、やっぱり鶴矢さんだ!!   俺は階段を駆け下り全速力で駆け寄った。とはいえ、我ながら足が遅い。休みの日は寝るかゲームで、元々なかった体力がさらに落ちた。全力で頑張ってやっとゴール。鶴矢さんの青い瞳に迎えられた。 「お疲れ様です、エトワールの鶴矢です!」 「……お、お疲れ様、です……」  俺も笑い返したいけど、すぐには息切れが収まらない。  一体なんの用事だろう。担当アドバイザーとエトワールの外で会えるなんて知らなかった。 「フフ。お仕事姿の透くん、すごく格好いいです。この姿が見れただけでも来たかいがありました」  前回は私服だった俺のスーツ姿をまじまじと眺める鶴矢さん。あなたこそ今日も薔薇のようにきれいです。

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