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第16話

 エレベーターが一階ロビーに到着した。ドアが開いて視界が開けると、目線の先に透を見つけた。後ろにいる墨谷には気づかずに、セキュリティゲートを越えて外に出ていったが、心なしか、足取りが軽やかで生き生きして見える。  食事に誘うことを思いついて、墨谷は早足で追いかけた。透の歩く速度が遅いため、距離はどんどん近づいていく。  誘うのは久しぶりだが、声をかければきっとついてきてくれるだろう。あいつが食べたいものをごちそうして、今後のキャリアパスについてどう考えているか話を聞きたい。  透の小柄な背中が目の前まで来て、墨谷はいざ、後ろから呼びかけた。 「木原……」  しかし、空振りに終わった。突然、透が脱兎のごとく、目の前の階段をかけ降りていった。そのまま会社の敷地外へと走り去っていく。  墨谷は戸惑いながらその背中を見送るしかなかった。  誘いを断られる可能性については考えていたが、まさか問答無用で逃げられるとは……。そんなに俺が嫌だったのか。以前はむしろあっちから一緒に帰りたいと誘いをかけてきたのに。  足を止めた墨谷は、どんどん離れていく透を虚しく見つめていた。そして、あっと声をあげた。透の進む方向には若い男が待っていて、駆け寄っていく透と手を降りあっている。  墨谷にはその男の顔にはっきりと見覚えがあった。昨夜、残業中の透がこそこそ隠れてチャットでデートの約束をしていた相手だ。透が定時に帰れずに、結局はこの時間まで残って仕事をこなしたため、約束は中止になったとばかり思っていたが、仕事が終わるまで待たせていたらしい。しかもそれが会社の正面口とは堂々としたものだ。  二人はすぐにタクシーに乗り込んで墨谷の視界から消えた。 「墨谷じゃないか。何をこんなところでボーッと立ってるんだ?」  後ろから肩を叩かれ、墨谷は我に返った。声をかけてきたのは山田という墨谷の同期で研究開発部門で働いている男だ。同期のよしみか、墨谷が商談に関する問い合わせを技術部門に投げると、必ず彼が回答を返してくる。 「そっちも今帰りか」 「ああ、お疲れ様」  墨谷はそれで山田を見送ったつもりだったが、山田は立ち去らずに体育会系のがっしりとした体で墨谷の前に立ちふさがった。 「最近はどんな調子だ? すごいよな、いくら営業職は他と比べて役職が付きやすいとは言っても。俺たち同期の中で圧倒的一番で課長昇進。まあ俺はこうなるって分かってた。墨谷は入社した時から誰よりも優秀で努力家だったから。それで、俺、力になろうとお前から問い合わせが来たら優先して回答してたんだけど、気づいてたか?」 「ああ……いつも助かってるよ」  墨谷の返事に、山田は満足げな笑顔を見せた。 「よし。ならちょっと飲みに行こうぜ!」  近くに馴染みの店があるらしいが墨谷は聞く前から手で遮った。 「悪いが、今はそういう気分じゃないんだ。次は付き合うよ」  山田の横をさっさと通り過ぎようとする。しかし山田の太い腕が肩に回って引き戻された。山田の重い体重を思い切り乗せられてしまって動けない。 「おい……離してくれ」 「いいから付いてこいよ」  顔が近くて息がかかる。墨谷が顔を背ければ、山田はさらに密着して満面の笑みを向けてきた。 「俺たちは同期で、さらにはもうすぐ相棒になるんだから、ここで親睦を深めるべきだろ?」 「…………」  山田が言っているのは、来期の目玉になっている新規案件のことだろう。取引先は海外の電子部品メーカーで、取引実績のない新規顧客、かつ取引額が大きいことから、墨谷は部下に任せずに自分で担当することにした。  この商談には技術知識が必須で、墨谷は技術部門へサポート役を要請中だが、そこに山田が申し出ている。無神経だが仕事はできる人材なので、このまま行けば彼に頼むつもりだった。  ────が、この瞬間に断ることに決めた。一年かかるプロジェクトをこんな無作法な人間と組むなどありえない。  ふと名案が浮かんだ。  山田の代わりに、透をサブ営業に指名してやろう。  もちろん、無謀だ。透は2年目の若手営業で、専門知識は皆無、しかもそそっかしい。透をアシスタントに選べば、墨谷自身が技術資料の読み込みをする必要があるし、透の指導とミスのカバーに手を焼かされて、墨谷の仕事は10倍増えるに違いない。  だが、生命をかけてでも、墨谷はこの機会に透を鍛え上げると決めた。  今年一年は男と遊ぶ暇もないほど頑張らせる。常にそばに置いて絶対に浮つかせない。そして約束通り「理想の後輩」に育ててやる。  そうと決まれば、透の教育プランをより明確にする必要がある。しつこい山田を背負い投げにして、墨谷は踵を返し営業フロアに戻った。

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