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第15話

 透の上司、営業2課・課長である墨谷文人は、一日の仕事の終わりに必ず振り返りを行うことにしている。  子供の頃は毎晩、父に報告することになっていた。一日で起きた事象に対して、自分の判断、行動、感情を内省し、改善の余地を探して次回に活かす。そうして自己成長するという教えを今も続けている。  透を最後に墨谷の五人の部下全員が帰ったので、墨谷もたまには早く帰ることにした。  業務アプリを終了させて、ノートパソコンの電源を落とした。ふうっと、一息つく。今日も忙しい一日だった。まず朝に、透が始業ギリギリで営業フロアに飛び込んできて、その後ろ髪が寝癖で大きく跳ね上がっていたことが思い浮かんできた。  墨谷は透を着席させず、トイレの手洗い場に引っ張って行き、そこで身なりを整えさせた。営業部に配属されて二年になるというのに、いまだに目が離せない。  午後は月例の営業MTに参加した。前回の営業MTで居眠りをした透に墨谷がちらりと目をやると、今日は両目を見開いて前を向いていた。が、肝心のプレゼンは全体的に言葉が足りずに不明瞭な内容で、墨谷が何度も補足することになった。会議終了後に10分ほど居残らせ指導した。  20時に中東の石油会社との定例リモート会議。王族の一族経営だけあって傲慢な客だが、透を気に入っており、透には態度が柔和になる。昨夜、透は欠席を希望したが、結局取り下げて出席したため、通常通りの穏やかな雰囲気で会議が始まった。が、その後少々荒れた。  今日も彼らは商談もそこそこに透に話しかけ、延々と自慢話を披露していた。新しく美術品を買ったとか、庭にサラブレッドを走らせたとか、すでに聞き飽きた話を延々と。ウンザリだが、付き合いも仕事のうちではある。黙って聞いていたら、透が無邪気に見てみたいと言った。 「なら今から迎えに行きましょう。あなたに全て差し上げますよ」  その言葉を冗談と思っている透はにっこり笑い、その横で墨谷が慌てて立ち上がって断りを入れた。そのままさらわれてしまいかねない状況に、どっと冷や汗をかいた。  なんとか無事に話が付いて会議が終了。透には「調子に乗るなよ」と厳重注意した。  その後も墨谷にやるべき仕事は多く、透はその斜め向かいで、昨日やり直しになった提案書を作り直していた。  他の部下たちが一人また一人と仕事を終えて帰って、2人きりになった。最後になった透がもし助けを求めて来たら、少しくらい手伝ってやるつもりだったが、透は一人で仕上げて持ってきた。少々疑っていたが、ミスは一つもなく、それに生産スケジュールや海外輸送のプラン等、工数やコスト削減の考慮も見受けられた。 「いいじゃないか。良くできている」  緊張した面持ちの透にそう告げると、信じられないというような顔を向けられた。 「あ、あの、俺、またどっか間違えたりしてませんか……?」 「いや完璧だ。顧客の都合で大変だったろうが頑張ったな。お疲れ様」  もう帰れるはずなのに、透は着席したままうつむいて動かない。数秒後、泣いていると気づいて、墨谷はぎょっとしながら透の肩を叩いた。 「どうした、気分でも悪いのか」  透は黙って首を横に振った。ではなんだと墨谷はもう一度尋ね、とにかく泣くなとハンカチを差し出した。 「すみません。なんか俺、今のがすっごく嬉しくて……」  透は墨谷のハンカチをにぎりしめて、恥ずかしそうに笑っていた。  はっと、我に返る。自分としたことが、思考が停止していた。机の上を片付けてロッカーにしまい、忘れ物がないことを確認し、上着に袖を通し営業フロアを出た。  下りのエレベーターは都合よく無人だった。静かに扉が閉まる。次の瞬間、墨谷は頭を抱え髪をかきむしった。  透の顔が脳裏から消えない。頬を真っ赤に染めて、潤んだ瞳で上目遣い。男が他人に見せて良い顔じゃない!  だがどうして冷静沈着なはずの自分がこんなに狼狽えているのか。  墨谷は己が混乱している理由を探った。たしかに、透はただの部下と言うには、少し特別な存在ではあった。  ────二年前、新入社員の透が営業部に配属され、墨谷は同じ大学の出身だという理由で、指導役を任された。顔を合わせた透は高校生のような童顔で、物覚えが悪くミスばかりで目が離せない。ただでさえ忙しい墨谷にとって、完全に足手まといの存在だったが、いつもひな鳥のように自分の後を追ってきて、話しかけるとパッと笑顔を見せる後輩を可愛いと思った。 「墨谷さんの理想の後輩になりたい」と言う透のために手取り足取り、できるだけのことをしてやった。それでやっと半人前まで来たと思ったら、墨谷の知らないところで、透は隣の課の男性社員に告白してしつこく交際を求め、それを相手に暴露され炎上した。到底信じられなかったが、墨谷が出張中に透は事実だと認めて部員全員の前で謝罪したそうだ。墨谷にとって冷や水を浴びせられるような出来事だった。  みそぎが済んでも、透は部内で浮いた存在となった。仕事のやる気もなく、言われたことを最低限やるだけ。 この前は大事な会議中に居眠りまでして、しかも平然と夜遊びを認めたので失望した。  ──だが本当は木原なりにやってたんだな。  新人時代と同じ、輝いた笑顔を向けられて、墨谷は柄にもなく有頂天だった。  木原は、俺の理想の部下になるという約束を忘れていなかった──  墨谷の口元から無意識に笑い声が溢れ出ていた。

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