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第37話
「木原、お前が『新人営業MVP』を獲れ」
その日の昼食後、墨谷さんに真顔で言われて、俺はおごってもらったコーヒーを吹き出しそうになった。
「は!? 無理ですよ!!」
『新人営業MVP』とは今日から一年後、最も成長した新人に、部長から贈られる称号だ。売上のほか、戦略、顧客満足度、社内の人気など、総合的に評価される。学生時代から落ちこぼれの俺なんかには絶対無理!
「不可能などない!!」
怒った墨谷さんに脅されて、俺はその後の営業部会で、「新人営業MVPを絶対獲ります!
」と宣言させられた。しかも声が小さいと三回も。
墨谷さんが俺を引き受けたのは、自分の昇進のため。俺に同情した他の先輩が口々に言った。営業部では、後輩への指導力は特に重要視されていて、俺の成長で墨谷さんの評価も決まるらしい。どおりで俺にMVPを獲って欲しいわけだ。
他の新人の同期たちは、それぞれの先輩と和気あいあい楽しそうにしているのに、俺は無口で厳しい墨谷さんに叱られてばかりの日々。最初はみんなが羨ましかったけど……。墨谷さんが出張中、仲間に入ったらみんな合コンの話ばっかり。しかも何度も人数合わせに誘われて、全部断ったら、すっかり相手にされなくなった。その点、墨谷さんは合コンに興味がなくてありがたい。それに、厳しいようでいて毎回休憩ではカフェテリアでコーヒーを奢ってくれるし……。
墨谷さんのおかげで、俺は順調に仕事を覚え、代わりに『墨谷の金魚のフン』と呼ばれるようになった。
そして配属から一ヶ月が経った金曜日。墨谷さんに初めて飲みに誘われた。
いつものように、一緒に退社して、別れ際にひとこと挨拶をして駅に向かうつもりだった。そこで、墨谷さんが予定を聞いてきた。
「これから食事に行かないか」
おいしいお寿司をごちそうすると言われ、驚いて、そしてものすごく嬉しかった。
一ヶ月頑張ったごほうびにプチ贅沢……にしては、タクシーが停まったのはとても有名な、決して庶民が足を踏み入れてはいけない高級寿司店だった。
「ここ!? 間違ってません!?」
「間違えてない。いいから入れ」
腰が引ける俺の背中を墨谷さんが中へと押し込んだ。
席は中央の一枚板のカウンターだけ。職人がずらりと並ぶ、高級感の漂う店内に、俺は思いっきり場違いな感じ……。
すぐに女将がやってきて、席を案内してくれた。満面の笑みで、おしぼりに注文にと甲斐甲斐しく世話をしてくれる。
墨谷さんは「坊っちゃん」と呼ばれていた。
なんでも、墨谷さんのお父さんが常連で、墨谷さんも幼いころから連れられて、女将いわく大人たちに混ざって、お行儀良くお子さまセットを食べていたそうだ。
有名な経営コンサルタントだというお父さんに、墨谷さんは分析力や、課題解決力を鍛えられたと言った。お母さんは華道の師範で、墨谷さんも雑念から離れて心を落ち着けたいときに花を生けるという。さすが、優秀な人は育った家庭からして違う。
前菜の小鉢と、冷酒が届いた。墨谷さんが冷気で表面が曇った徳利を手に取り、きれいなブルーのガラスの二つのお猪口に、そっと注いでくれた。
ドキドキしながら乾杯。
口にいれると、アルコールを感じないくらいなめらかで、お酒に弱い俺にも飲みやすい。
「おいしいですっ」
「そうか、口に合ったなら良かった」
墨谷さんがニコッと笑ったので、俺は思わず椅子から転げ落ちそうになった。
笑顔を見せない氷の営業と呼ばれる墨谷さんが笑うなんて……。ありえない、幻覚かな……。
混乱する俺の横で、墨谷さんは女将に続いてカウンターの向こうの大将ともお喋りを楽しんでいる。
墨谷さん、改めて見ると、やはりとてもきれいな顔だ。すっと伸びた鼻筋、薄い唇、目は切れ長で、意外と睫毛が長い……。
「なんだ?」
ついじっと見すぎてしまった。振り返った墨谷さんはやっぱり笑ってなんかない。怪訝な顔をしている。
「い、いえ……えーと、そうだ、俺の両親の話でも聞きます……?」
ごまかしで言っただけのつもりが、
「ああ、ぜひ聞きたいな」
墨谷さんは意外と興味を持ってしまった。
「で、でも……退屈だと思いますよっ?……」
「興味がある」
なんで? もしかして親の顔が見てみたいってやつ?
墨谷さんのすごいご両親の後では少し恥ずかしくなるくらい、俺の両親はごく平凡な公務員だ。職場結婚で、揃って都庁で勤務している。両親には俺のせいでなにかと心配をかけてきたけど、今年、無事に大学を卒業し、大企業に就職もできたことをとても喜んでくれて、ちょっとは親孝行できたと思ってる。
墨谷さんがたずねた。
「木原は真面目で素直で、親御さんに心配をかけるようには見えないが……」
「え? えへへ、そうですか?」
墨谷さんが俺のことをそう思ってくれてたなんて意外だった。オフィスでは俺のこと、ボンヤリしてるとか、おっちょこちょいとか、叱ってばかりなのに。
今は、そんなこと忘れてしまうくらい、墨谷さんの俺に向ける眼差しは柔らかい。見つめ合ううちに、本当は誰にも言わないつもりだったことも、打ち明けて良いような気がした。
「俺……昔から、その……自分の気持ちを隠せなくて。その事で、同級生たちに避けられたり、ちょっとしたイジメに合ったりしてたんです。内部進学だから、ずっと続いてしまうし……」
「そうなのか」
「負けないって思ってたけど、最後には一人ぼっちになって、結構辛かったです」
墨谷さんの表情が曇った気がして、俺は慌てて笑ってごまかした。
「も、もちろんそれは、学生時代のことですから。社会人になったからには気を付けます!」
学生時代の失恋で散々学んだので、もう恋をしないと決めていた。恋したってどうせ叶わなくて傷つくだけだから。
「いや……」と墨谷さんは首を横に振った。
「正直なのはいいことだ。俺は木原にこれからも自分らしくいて欲しい」
真っ直ぐに見つめられ、お酒のせいか、俺の体の中が一気に熱くなった。
「でも俺……皆に嫌われてばかりで……。今だって新人の同期たちの中で、俺だけ気まずいし」
「どうして?」
「俺が合コンに行かないからです……」
「なるほどな」
俺の悩みを墨谷さんは鼻で笑った。
「行かなくていいし、これからは、俺がそばにいるから大丈夫だ」
会社で一番怖くて、俺のこと嫌いだって思っていた人が、そう言ってくれるなんて思わなかった。しかも優しく頭を撫でてくれる。感極まって涙がこぼれてしまい、墨谷さんがハンカチを差し出してくれた。俺は涙を拭いて言った。
「親友もそう言ってくれました」
墨谷さんが意表を突かれた顔をしたので、「あっ、一応俺にも親友がいて……」と誘のこを紹介した。
先週アメリカに行ってしまったけど、俺のことを誰よりも理解してくれる、俺にとって一番大切な存在だ。
「ふん……」
墨谷さんはつまらなそうだ。でも、聞いてほしかった。
「あいつ、俺とは誰より気が合うって言って、俺もそうで、他に誰もいらないくらい仲良くしてたのに、アメリカに行ってからは、一度も連絡ないんです。向こうのセレブと仲良くなって、平凡な俺となんか付き合うのが、面倒臭くなったのかな……」
「さあな。俺には分からない」
墨谷さんの返事がちょっと冷たい。
「すみません、つまんない話して……」
「いやいい」
でも、心なしか横顔がムスっとしてる。お酒を飲み始めたので、困っていたら、空にしてからこっちを向いた。
「大丈夫だ。そんな薄情な奴は仕事に励んでいればすぐに忘れる。また月曜から俺が指導してやる」
初対面の時はぞっとしたセリフなのに、今は心強かった。
「よろしくお願いします! 俺はこれから仕事一筋、墨谷さんの理想の後輩を目指しますっ」
「本当か」念を押されて「はい!!」と答えた。
バリバリ仕事して、誘のいない寂しさを埋めて、一人前になったら海外出張のついでに、アメリカに会いにいってやる!
「よし。期待しているからな。俺も精一杯やるから木原もついてこい」
「はい!!」
もう一度乾杯したところで、おすすめで六貫のお寿司がやって来た。まるで宝石のように輝いて、口にいれると、あっという間に溶けていって、旨味たっぷり。
夢中になって食べ終わると墨谷さんが追加してくれて、また夢中で食べた。
俺は元々おしゃべりだけど、普段無口な墨谷さんもたくさん話してくれた。母校が同じだから、学生時代の思い出話とかで話題は尽きない。
二時間くらい飲んで喋って。とても楽しかった。それで、この時間が終わってしまうのが寂しくて、一人ぼっちの部屋に帰りたくなくなって……。
(うぅ…………)
──できれば二度と思い出したくなかった。酔った勢いで、帰ろうとする墨谷さんを泣いて引き留めたことなんて……。
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