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第38話
「思い出したようだな?」
墨谷さんにたずねられ、俺は赤い顔でヤケクソ気味にうなずいた。
「ハイ、その節はどーも、ご迷惑おかけしました!」
若気の至りってやつだ。あの頃の俺は世界で一番の先輩に出会えたって思っていた。
「──やだやだ!! 俺はまだ帰りませんっ! お願い墨谷さんっ、終電までまだ時間あるし、もう少しだけ一緒に飲みましょう!?」
お寿司をご馳走になったことに、きちんとお礼を言えたのは良かった。帰ろうとする墨谷さんをカラオケに誘ったのも、怖いもの知らずではあるけど、かわいい後輩のうちだろう。問題は、墨谷さんに誘い断られたことに、酔っていたせいで大げさにショックを受けて、泣いてダダをこねたこと。
「絶対に断る」帰ろうとする墨谷さんを、俺は
「もう少しだけ」とスーツの裾を握って引き止めていた。
「なら、俺とカラオケ行こーよ?」
急に肩を引かれて驚いて振り返った。金髪を後ろでくくった若い男が、俺の顔をまじまじと見ていた。
戸惑う俺に人懐っこそうな笑顔を見せる。外見は派手だけど、学生に見えて、怖い感じはしない。
「割り込んでごめん。でも話が聞こえてさ。お兄さん、まだ遊び足りないんだよね?なら俺が相手するよ。俺なら朝までだって付き合うし」
顔は全然だけど話しかけてくる声がちょっと誘に似てる。
っていうか、もしかしてこれって、俺いまナンパされてる?
ナンパなんて生まれて初めてだった。いやでも、ナンパじゃなくて本当に遊ぶ相手を探しているだけかもしれないし?
男が俺にそっと手を差し出した。
「ほら、行こーよ。もしかしてお兄さんには俺が子供っぽく見えてるのかもしれないけど、中身はそうでもないよ、自信ある」
やっぱり年下か。そう思っていたら「早く」と催促された。シルバーリングの輝く指が、俺の手に触れようとする。
「いや、えっと……」
「怖がらないでいいよ。俺は鸞(らん)っていうの。怪しい奴じゃないよ。ねっ、お兄さんの名前も教えてよ」
「悪いが全く信用できないな」
答えたのは俺ではなく墨谷さんだった。見るからに不機嫌そうだ。
「この子は俺が責任もって自宅まで送る。お前のような安い男に用はない」
「はあ? 本人が帰りたくないって言ってんじゃん。一人で帰れよ」
墨谷さんは俺に「行くぞ」と言って踵を返した。俺も帰ろうと思った。が、男の手が俺の腕をつかんだ。
「行かないでよ。せめて名前教えて」
振りほどこうとするが離してくれない。墨谷さんが止めに入ってきた。
「何をしてる、離せ」
「やだねっ、テメーこそ離れろよっ!!」
男が突然顔色を変え、墨谷さんの胸を突き飛ばした。墨谷さんが男の手をつかむ。容赦なくひねり上げ、後ろから突き飛ばして、地面に膝をつかせた。
「わーーーっ!?」
夜の路地に、俺の情けない声が響いた。
男は立ち上がって、一瞬だけ俺を見てから去っていった。悔しそうに唇を噛んでいた。なんだか可哀想で、こうなったのは俺が悪かった気がした。
……いや、実際そうなんだろう。男が去ったあと、墨谷さんの般若のような恐ろしい顔が俺へと向いていた。しかもどんどん迫ってくる。
「お前、なぜさっさと断らなかった? 相手に下心があると分からなかったわけじゃないだろう?」
昼間、仕事でミスして、こんな風になぜ間違えたのかと問われることもあるが、今が一番怖い。俺は震え上がりながら、ぺこぺこ頭を下げた。
「す、すみませんでした、次からは気を付けますっ」
だけど墨谷さんは怖い顔のまま、俺ににじり寄った。俺は歩道の隅へと追い込まれ、駐車場のフェンスにぶつかった。逃げ場がない。般若の顔面が迫ってくる。
「まさか、普段からああいう男と遊んでいるんじゃないだろうな?」
「ままま、まさかっ! 声かけられるのさえ初めてですよっ。もちろん断るつもりでした!あーいうチャラくて、ロン毛で、しかも年下なんて全然俺の好みじゃないですし!!」
なに言ってるんだろ俺。でも、墨谷さんは納得したらしく般若顔が通常に戻った。
「なら今度こそ俺と帰るよな。疲れているだろうから、早く帰って入浴し、休んで欲しい」
「はい! 月曜からまたお願いします!」
自宅までタクシーで送ってもらって、おやすみなさいっていう、仕事ではしない、初めての挨拶に照れながら別れた。
その後も俺は、墨谷さんの金魚のフンの名にふさわしく、社内では常に一緒に行動、仕事の後は一緒に退社、そして、頻繁に食事に連れて行ってもらった。その時間が俺にとって一番の楽しみで、るんるん気分が隠せずに、周りに「お前ら付き合ってんだろ」って冷やかされたりした。
墨谷さんが放っておけというから俺も黙っていたけど、もちろん付き合ってないし、俺が実際に心惹かれている人は他の人で、同じ新人の同僚だった。
その彼は、頭が良くて、業務にもそつなく取り組んでいたけど、本当は俺と同じで営業志望ではなく、すぐにでも他の部署に異動したがっていた。俺にだけ本音が言えるって頼ってくれるのが嬉しくて、張り切って、愚痴や頼みをきいてあげた。
そして思いがけなく誘が俺の元へと戻ってきた。仕事に恋に遊びに、毎日が輝いていた。
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