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第一章 遠い日の約束①
時は明治――。
元年に誕生した明治政府は、国民は天皇の下に平等であるという『四民平等』を打ち出した。これにより国民は皆平等な立場となって、等しく教育を受けることもできるようになり、身分に関係なく誰とでも結婚できるようになった。
しかし、それは本当だろうか?
人間は生まれてきた瞬間に男と女という二種類に分類されたあと、更にアルファ、ベータ、オメガという三種類に分類される。
自分がどれになりたいかなんて選べるはずもなく、神様の思い付きで勝手に決められてしまう。理不尽極まりないが、それすら運命だと受け入れざるを得ない。
オメガはアルファに支配され、主と奴隷の関係へと堕落する。
アルファがオメガの首に嚙みついた瞬間、運命の歯車によって全てが狂わされていくのだ。
その関係はまるで狼の群れのようで――強い者が弱い者を支配し、弱い者は支配者に尾を振るか、群れを去る以外に生き延びる術はない。
『四民平等』と高々と謳われたこの時代、ある一人の男が心を焦がすような恋をした。それは身分の差という障害だけでなく、『第二の性』という二重の困難に行く手を阻まれた前途多難なものだった。
彼が恋した相手は華族の生まれであり、アルファで同性だ。一方、男は平民生まれの何の取り柄もない、ちっぽけなオメガ。それは、いくら四民平等が掲げられた時代だったとしても、許される恋などではなかった――。
不規則な水音が鳴る。水を掻き分けながら、宗一郎 と仁 は池の深みへと向かっていく。
空には真ん丸な満月が浮かび、水面にユラユラと揺れていた。「あぁ、今日は満月だったんだ」と頭の片隅で思う。
今の季節は真夏だというのに、池の水は凍てつくような冷たさで、宗一郎の細い体からどんどん熱を奪っていく。手足の感覚はとうの昔になくなり、体がガタガタと震えた。
それでも仁と繋いだ手だけは異常に熱い。あまりにも強く握られているものだから、手が痛くて宗一郎は何度も顔を歪めた。
「仁さん、やっぱり引き返しましょう」
宗一郎は何度かこの言葉を口に出そうとしたものの、仁の背中がそれを許してはくれなかった。
――もう……自分達は引き返すことができないんだ。
宗一郎の瞳に涙が滲む。
何度も何度も二人で話し合ったはずなのに、宗一郎の決心は冷たい池の水に触れた後でもなお、どうしても鈍ってしまうのだ。
仁には、もっと違う未来があったに違いない。だってこんなにも良い家系に生まれた優しいアルファなのだから。素敵な許嫁と結婚して子宝に恵まれる。きっと良い父親になることだろう。
そう思えば、今、自分達がしようとしていることが正しいのかわからなくなってしまった。
仁の逞しい背中を眺めているうちに、涙がポロポロと頬を伝う。二人で過ごした楽しかった日々が走馬灯のように駆け巡った。
――あぁ、俺はやっぱりこの人が大好きだ。
水を吸った着物がどんどん重みを増して体にまとわりついてくる。池の底に何度も足をすくわれそうになったのを、必死の思いで堪えた。
池の水が口内に侵入してきて、呼吸がまともにできない。今ならまだ引き返せるかもしれない……。そんな思いが宗一郎の頭を過るのに、全く躊躇う様子のない仁。
自分の荒い呼吸がやけに鼓膜に響く。強い恐怖に駆られて、仁の腕に宗一郎は無我夢中でしがみついた。
「宗一郎、月が綺麗だね」
「え?」
仁が突然立ち止まり、まるで宗一郎の心を見透かしたように微笑んだ。それは宗一郎が愛してやまない笑顔だ。
きっと彼も、冷たい池の水に包まれて震えんばかりのはずなのに。その笑顔は宗一郎が愛するもののまま、何も変わらない。胸が苦しくなるような、そんな感覚に、宗一郎は喉奥をグッと硬くさせた。
その瞬間、たくさんの蛍が淡い光を放ちながら一斉に空に向かって飛び立っていく。二人の頭上を埋め尽くすような光。さながら、闇の行く末を照らす灯火のようであった。
その光景があまりにも綺麗で、宗一郎は思わず目を細める。
そして、仁の手を改めてきつく握り締めた。
「……仁さん、俺は死んでもかまいません。あなたと一緒なら、怖くない」
「僕もだよ、宗一郎……。僕がもし生まれ変わることができたならば、必ず君を探しにいくよ。そして、もう一度君を愛する」
「俺も、絶対に貴方を探します。だから、生まれ変わって、もう一度会いましょう……。今度は誰にも邪魔されることのないように……」
「あぁ、そうだね」
二人で見つめ合って微笑む。それから、きっと最後になるであろう口づけを交わした。
唇が触れ合った瞬間、ビリビリッと弱い痺れが流れる。仁と触れ合うといつもこうだ。甘くて体の奥にジンジンと響いていくような痺れが体中を駆け抜けていく。
それがどういった衝動なのかなど宗一郎にはわかることはなく、仁が自分と同じような体験をしているのかもわからない。
ただ、この甘い痺れを感じた後、宗一郎はいつもヒートしてしまうのだ。全身から溢れ出すかのような甘ったるい香りに宗一郎は思わず目を見開く。気分がどんどん高揚していき、心拍数が上がっていくのを感じた。
冷たい水の中にいるにもかかわらず、体中が火照り出して……呼吸が荒くなり、息苦しくて必死に肩で呼吸をする。お腹の奥の方が疼きだし、その切なさに涙が溢れそうになった。
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